みなべ町役場から12時すぎに出発する。
線路をわたって、駅方面に向かうと三鍋王子だ。
明治の神社合祀で鹿島神社に合祀された。小栗判官にまつわる小栗井戸もある。
商店街に「封じ梅」という商品を売る菓子店?がある。しその葉で包み、砂糖漬けにしたものらしい。
梅の菓子ってけっこういろいろあるのかも。そもそも、梅の実じたいを「菓子」として食べていた時代があったのだ。
駅前通りを抜けると南部高校だ。住宅や商店の合間に梅畑がある。
道が狭まってまもなく鹿島神社に着く。
広い境内に馬の像が2体ある。
昭和10年に青銅製の神馬像が奉納されたが、戦争で供出され、その後再建された。
神社では8月1日に400年来、花火祭りが開かれている。宝永大地震の大津波で、この沖合で高波が2つにわかれて、南部では荒波がしずまった。1708年に感謝の祭りが開かれたのがはじまりという。140年後の嘉永年間の津波でも安泰だった。神様のおかげ、ということになっているが、なにか他の理由があるのではないか〓。
戦争中の昭和17年から21年までは花火はできなかった。昭和21年の南海道地震でも被害は軽微だった。その感謝もあって昭和22年に花火大会は復活した。
朝日楼という旅館?のところで国道に出る。陸側の側道のようなところを歩く。
海を望む丘の中腹をたどる。堺という集落はおちついた家並みだ。
国道に出たら目の前が堺の漁港だった。
13:14、田辺市に入る。海には洗濯岩のような磯があらあわれる。
目の前に天神崎。大屋トンネルを抜け、川沿いに「吉田機工 モノレール」という工場がある。農作業用かと思いきや、「乗用モノレール12人乗りOK」と書いてある。
こんもりした森や大木が見えたから海側に小道を入る。そこに芳養王子があった。「村社 大神社」。合祀によってこの名になったらしい。
国道に並行した細い道は、昔ながらのまちなみだ。床屋やタバコ屋があり、金山寺みその店がある。「芳養松原」という町名は、かつては松原があったからだろう。
床屋の青色の回転塔はだれが考えたのだろう? タバコ屋の独特の店舗のつくりはどうだろう? 歩いていると次々に疑問がわく。「あたりまえ」ではないことに、ふと気づく。
大喜寿司の目の前に、巨木とお堂がある。「一里塚地蔵尊」
国道に出てちょっと歩くと「牛の鼻」。すぐに芳養漁港。天神崎が目の前に横たわっている。
この近辺には松原が残っている。なぜここにだけ松原が残っているのか。
14:19 植芝盛平翁生誕之地は、空き地に木が2本生えているだけ。
そこから脇道を右に入ると、ブランコと滑り台と砂場のある児童公園があり、その一角に石碑が3つある。一番右が「潮垢離浜跡」。大正10年の埋め立てて潮垢離の風景がなくなってしまった。碑は昭和40年に江川漁協がたてている。
左隣は「前田増一先生顕彰之碑」元県議らしい。昭和59年に建てられた。
さらに左には「田中竹吉翁之碑」。昭和45年建立。漁師として活躍したらしいが、具体的に何をやった人なのかはわからない。興味深い。
国道へもどる。古びた食堂や2階部分が銭湯になっている古いビルも。昔はにぎわったのだろう。龍泉寺まで行って、行き過ぎたことに気づき、ちょっともどった。木々がこんもりとあるあたりだろうな、と見当をつけて路地を100メートルほど入ると、斜面の手前に「出立王子跡」があった。
国道に案内板がないから地図なしにはたどり着けないだろう。
会津川沿いには「浄恩寺」がある。さっきの龍泉寺のすぐ近くだ。なぜこんなに寺が多いのか。会津川対岸が昔繁華街だったからだろうか。しかも浄土宗ばかり。この寺には「備中屋長左衛門之墓」「和佐大八郎之墓」がある。備中屋は江戸時代に備長炭をつくりだした人だ。
和佐は京都三十三間堂での通し矢で一昼夜で8133本を射た弓の名手だという。「晩年は弟の女性問題がもとで、田辺城下に幽閉され、やがて病により51歳の生涯を失意のうちに終える」とネットに書いてあった。そちらのほうが興味を覚える。
古道はここから川沿いに高山寺に向かうが、旧道の橋で会津川をわたり田辺の旧市街に入った。
電気屋、酒屋、洋品店、美容院…昔はにぎやかだったのだろう。メガネ・宝石店があるのも豊かさを示している。
陶器店の目の前に道分け石がある。これは復活させたのだろう。
道が蛇行しているから方角がわかりにくい。
呉服店前にある道分け石に到着。高さ218センチある。安政4年に建てられた。
蟻通神社の霊樟の大木は、安政元年の地震の火災のとき、幹や枝から白水が噴出し、さらに風向きが逆転して、まちの災厄を食い止めたという。
みなべの鹿島神社もそうだけど、そういう災害時の奇蹟の伝説は、その裏になんらかの意味があるのではなかろうか。
飲み屋街を経て、15:15、田辺駅に到着した。(20160224) 完
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