朝の一枚岩はどっしりしていて荘厳な雰囲気がある。
出発は8時半。すぐに橋を渡って旧道の相瀬という集落へ。
ウグイスの競演だ。わずか5日の間で、野太い声になってきている。緑も新緑の明るい色からどんどん色濃くなっているのがわかる。
おばあさん2人と会った。あちこちで育てている茶のような木について尋ねると「シキミや」とのこと。
川沿いの杉林のなかを歩くと「弓崎地蔵登り口」と書いてある。巨岩が聳えている。
岩に地蔵が刻まれているのだろうか、と思って登るが、その巨岩の上に出てもさらに道がつづいており、次の巨岩の横をのぼっている。あきらめた。
9:15(2.4キロ)、トンネルを抜けると、洋風の雰囲気がある二階建ての木造家屋がある。
商店だったのだろう。壊れかけている。
それをすぎて振り返ると、巨木の先のようにとんがった山がそびえている。これが飯盛岩らしい。
国道を横断して下をくぐり、左岸の旧道をたどる。川の音やウグイスの声、ゴーラから出入りするミツバチの羽音も楽しめる。自然の交響曲にどっぷりつかることができる。旧道はゴーラ地帯だ。
岩穴のなかにもゴーラがあった。
岩が道路に覆い被さり、虫が食ったような穴が無数に開いている。水が上からしたたりおちてくる。
カモシカ岩と材木流しトンネルというのは見落としたが、もしかしたらこのあたりのことをそう呼ぶのだろうか。
9:32(3.6キロ)道標地蔵。さらに3分歩くと、黒っぽい下目板張りの二階建ての立派な家がある。外車がとまっている。
「これ、司馬遼太郎の別荘やろ」とサル。なるほどこれかもしれない。川の展望を楽しめる。すぐ隣に「売り物件」があった。「司馬さんの家は生活感がない。こっちのほうが落ち着きそうや」
9:42(4.2キロ)一雨寺前バス停から国道の橋をわたってすぐ、民家のならぶ川岸の細い道に入る。川辺の雑木林と竹林が交互する散歩道は、ウグイスの声があちこちから響いてきて、明るくて心地がよい。
10:03(5.8キロ)、橋を左岸にわたり国道にまた合流した。左手の集落に入り、黒々とした岩の下の谷をさかのぼると神水瀑だ。
木々に覆われた岩と岩に挟まれた洞穴のような裂け目から真っ白な水がゴーゴーと流れ落ちる。水量が多くて見応えがある。
国道を5,6分歩くと明神小学校と中学校がある。「鹿が入るから、夕方以降は門を閉めています」。校庭は芝生で石垣島などの学校と雰囲気が似ている。
小学校の隣には診療所がある。
明神地区の中心に「みんなの店」がある。「柏餅あったら食べる?」とかサルがいっていたが、到着したら連休なのに休み。「牛糞あります」と書いてある。台風12号洪水時の最高水位を示した柱が立っている。3.04メートル上だ。周囲の家もすべて浸水したのだ。
郵便局の手前から小道をおりると沈下橋だ。10:49(8.3キロ)。
平成21年?に新たに架けられたようだ。対岸は草原の道。昔はこんな道だったのだろう。
獣よけの柵をあけて田んぼのなかを山側の集落に向かって歩く。若い子たちが手植えで田植えをしている。山の麓に農家がならぶ。その集落も落ち着きを感じさせる。子どもも若者も犬もいっしょ。昔ながらの水田集落の風景だ。
僕らが子どものころの阿蘇は、ガキどもが川で遊んでいた。今はもうないんだろうなあ。集落の裏山あたりを「三山冠」というらしいが、わからなかった。
山際の集落の道を左手に進むと川沿いの杉林の道になる。
さっき田植えをしていた連中が歩いてきた。大阪から実家の田植えを手伝いに来たという。杉の森のなかの1軒家に父親が住んでいる。森を柵で囲っているのはダチョウを飼っていたからだ。ダチョウは昼間は足が強いから獣にやられないが、夜寝るときにタヌキに内臓を食われてしまう。最後は水害のストレスでダチョウは全滅したという。川沿いの杉林の家の近くの壁には「ダチョウのイシイ」という看板がある。森の中にはログハウスは「おやじがつくった」という。
11:24、川ぞいの森を抜けると明るい集落に出た。芝生の庭にはイスやテーブルがある。デッキから川が見える家もある。このへんは外でのんびり楽しむ文化があるのだろう。
高瀬橋をわたった県道にバス停がある。カヌーを載せた車が何台も集まり、バーベキューをしている。
11:38(11.3キロ)牡丹岩。山肌がくぼんだ部分に、虫が食ったように無数の穴が開いた岩盤が露出している。
岩を食うという魔物の伝説もあるという。その全体が牡丹ににているのかと思ったらちがった。岩盤の上のほうを見ると、彫刻で掘った牡丹の花のような岩が浮き出ていた。「私はてっきり牡丹肉を食べさせてくれるから牡丹荘かと思った」とはサル。
牡丹岩のすぐ隣が「牡丹荘」。ランチやジェラートもあり、日帰り温泉もあるという。一度使ってみたいなあ。その庭で昼食休憩。おにぎりと乾燥イモを食べた。
漆が淵の地蔵。岬の下が淵らしい。その突端には「喫茶ゆう」がある。
信仰の場になりそうなところには何かがある。商売にもなる場所だったのだろう。
川向こうに奇怪な岩峰がみえてきた。その正面にトイレとちょっとした公園がある。「後南朝洞窟碑」がこの近くにあるらしい。ちょっと引き返して、倉庫のわきを入り「新屋農園」と記された民家のわきを通って山肌へ。
奇岩の真下だ。巨大な岩が岩盤に支えられて斜めに立ち、その下が洞窟のようになっている。
その洞窟の岩に無数の文字が刻まれている。「南朝の末…」と。「後南朝洞窟碑」という。
文字が鮮明だから古いものではない。でもこれだけの文字を刻むのは大変な仕事だ。どんな人が伝え、この集落にはどんな逸話が残っているのだろう。
これだけの名所なのに、案内板ひとつない。古座街道は不親切で、案内マップがなければ何もわからない。でもだからこそ昔ながらの雰囲気が残っているのだろう。
12:43(14.23キロ)河内島。「河内祭の御舟行事」でこの小さな島のまわりを舟が巡るという。
石燈籠が2基、その奥にヒノキの古木が2本あり、その向こうに島が浮かぶ。
さらに先には鳥居があり、そこから島をのぞける。社殿のない神社なのだ。
トンネルを迂回して旧道をたどると、ゴーラが2メートルほどの間隔で、20本も並んでいた。これまでで最高のゴーラ密集地帯だ。
河内橋の左岸を下ると、郵便局や役場、日吉神社がある。郵便局前でたむろっていたおじさんたちに「上にのぼると海まで見える」と言われた。
神社わきの階段をのぼった高台には避難施設の公民館のような建物がある。そこから山道を10分ほどたどると尾根上の社に出た。そこからは、古座川町の中心部の集落と、古座の河口と海まで見渡せる。
照葉樹の森を下り、13:34(16.2キロ)小学校の敷地内に下りて、町屋がならぶ小道を歩いて郵便局にもどってきた。
現在の県道と平行する裏道が古座街道だ。
川沿いに出ると、古座川の河口が見渡せる。昔は材木がひっきりなしに流れてきたのだろう。
神戸(こうど)神社の手前に「互盟社」という大正か昭和にはやったような洋風の下目板張りの民家がある。
でも屋根から草が生えている。きちんと管理できていないようだ。何の会社だったのか?
川沿いに、家がたっていない広場がある。かつては材木置き場だった。
ところどころに残る巨木に、材木を結びつけていたという。
神保旅館をへて、国道をくぐると、町家がより密集してきた。
呉服や本屋、スナック…なんでもある。いや、あったはずだった。
格子のある家が多く、かつての繁栄を思わせる。
14:21(18.7キロ)善照寺。本堂は7間4面の構造で、雑賀党の武将、山本善内之介弘忠が1581年に創立し、善内寺と名づけた。その後、改名された……という。
雑賀の歴史はおもしろいかもしれない。それにしてもしっくいの山門は立派だ。なぜこれだけ豪壮な建築ができたのだろう。
寺の周囲は町屋が密集している。洋風の欄干をもった家や、ピンクの塗装の家々など、しゃれた建物が多い。古座は路地が生きているまちだ。
斜面の石段100段以上をのぼると、阿弥陀寺だ。石段の途中からは、古座のまちの瓦屋根と古座川の河口、大島方面が一望できる。
町屋のなかに3階建ての民家があった。戦前の建物だろうか。
14:45 古座街道道路元票。明治の国道の起点になるはずだったのだ。
14:56(19.7キロ)古座神社。朱塗りの社殿、山門も赤い。石段をのぼったずっと上にある奥の院?はふだんは入れない。
通行を阻む山門には、「ストップ」とでも言うかのように手形がつけられている。ユニークな神社だ。(おわり)
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