古座街道は司馬遼太郎の「街道をゆく」で有名になったが、司馬がたどったのは南半分だけ。実は明治時代の一時期、田辺と古座を結ぶ主要街道と位置づけられていた。世が世ならば海岸の国道42号ではなく、古座街道が主要国道になってもおかしくなかったのだ。しばらくは忘れられ、荒れていたが、最近になって復活したという。
車を置いて上富田のまちを通過し、富田川沿いの国道をさかのぼると、上富田中学校の向かいに「彦五郎人柱之碑」と「溺死招魂碑」という碑がある。おそらく明治の大水害の犠牲者を悼んだものだろう。
彦五郎は、堤防をつくるために人柱になった男らしい。その堤防によって長年水害を防いでいたが、明治22年の洪水では決壊した。明治になって共有の森が次々伐採されたためだろう。
川縁を少し戻って、生馬橋をわたった。
生馬川沿いをさかのぼる。道路沿いは新しい家が多い。上富田は人口が増えているだけあって、人の姿をよく見かける。
生馬小方面の旧道を左に入る。山の斜面にたつ大師堂は小さな民家のようで、正面だけお堂風になっている。
閉鎖されたガソリンスタンド、農協、役場の生馬出張所には、生馬財産区と生馬愛郷会の事務所も兼ねている。愛郷会や財産区があるということは、共有地を基礎にしたコミュニティのつながりが強いのかもしれない。
小学校から右に折れて県道と川をわたり、すぐの山道を50メートルほどたどると長い石段があらわれる。
103段のぼったてっぺんに社がある。虫遂(むしやなぎ)神社だ。石製の手水鉢があるが、こんな山のてっぺんに水を引いていたのだろうか。
小学校にもどって少し進むと、左手に約140段の石段がある。観音寺とうい寺で「さつき寺」とも呼ばれているらしい。
石段の途中に「溺死精霊乃…」とう石碑があった。これも明治の水害の碑だろうか。
境内には、無数の石仏や古い墓石、庚申塔などがならんでいる。古い石がならぶと独特のすごみがある。わきには赤い毛糸の帽子をかぶったお地蔵さんが衛兵のように付き添っていた。
雰囲気のよい寺だ。
民家の庭にハゼの巨木があった。葉はサンショウの葉を巨大にしたみたい。
ハゼってヘイゼルナッツだったっけ? ハゼの木があるのはロウソクづくりと関係があるのだろうか。
3軒ほど先の小道を入ると、山際の杉の巨木の下に鳥居と社殿があった。
弁財天社だ。それにしてもこの地区にはなぜこんなに社や寺が多いのか。独特の宗教文化が残っているのかもしれない。
道沿の法面に庚申塔があった。
土台に猿をあしらい、6本の腕をもつ石仏は独特の存在感がある。
県道と合流し、稗田のバス停をすぎる。道路から10メートルほど入った場所に小さな祠がある。
石仏とわらじが飾ってあるのは足の病気についての祈願だろうか。これが薬師堂らしい。やっぱり快癒祈願なのだろう。
道路の左側の法面上にクスと思われる巨木がそびえている。それが地主神社の参道の目印だ。ここから小道をたどり、NTTの鉄塔から山への踏み跡を歩くと、鳥居が7本もある。
その下をくぐると赤い社殿があった。
社殿には白い陶器製のキツネの人形が何体も飾られ、その奥に鏡がある。ここはお稲荷さんなのだ。
県道におりたところが鳥渕バス停。鳥渕町内会館の裏のこんもりと盛り上がった森が鳥渕神社だ。
入口の左右にほこらがあり、左に1体、右に2体の地蔵がまつられている。
さらに右側には庚申塔と丸石がある。
神社の社殿の奥には巨大な積み木のように石を積み上げてある。
石積みのなかにご神体が隠されているのだろうか。
それにしても、目と鼻の先に二つの神社があるということは、合祀されなかったのだろうか。それだけ地域の力が強かったのかもしれない。
ここまで10キロ弱で2時間余り。ここからは峠道に分け入っていく。(つづく)
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