昼ごろ、船浮集落に上陸する。左手の断崖に開いている洞穴は何だろう?
船浮は14年ぶりだ。港がきれいに整備されたような気がする。
人口49人 27世帯があるがそのうち11人が先生だから地元の人は16世帯。子どもは小学生4人と中学2人。ただし6人中4人は先生の子どもという。
海沿いに民宿の「かまどま」やカフェ兼食堂がある。
民宿は昔も今も昔も3軒ある。ガイドのお兄さんの家が経営する食堂では昼から生ビールを飲むおじさんがいる。
集落の左の端っこに大きな穴があいている。軍の防空壕だ。手ぼりで約3年かけて掘った。特攻艇の格納庫や発電室、弾薬庫などもある。
船浮湾は軍港となって住民は立ち退かされ、200人の軍人がいた。池田さんの祖父は軍人の世話役として集落に残された。父は7歳で集落に残った。
電気と電話は石垣島から海底ケーブルをひいているが、30年前までは自家発電しかなく、21時で電気は切れた。風呂はマキでたく五右衛門風呂。冷蔵庫はない。だから子どもにとって、白浜に出ないと食べられないアイスが一番のごちそうだった。
テレビもNHKだけで、子鹿物語などのアニメが一番の楽しみだったという。
電話も、集落で1台、池田さんの祖母の商店のピンク電話しかなかった。
池田家が営む食堂へ。開け放たれて、風が気持ちよい。
パパイヤの佃煮と、とろりとおいしい肉がのったそばが出てきた。
店は12年前、資料館と同時に開いた。僕らが訪ねたのは2001年で「もうすぐ資料館を開館する」と言っていたのを思い出した。
海辺に「かまどまの碑」がある。
八重山三大美女といわれるかまどまは、祖納で殿様と呼ばれたイケメンの役人と恋に落ちた。かまどまが待ちわびる様子を歌ったのが「殿様節」。碑の後ろのクバリーサの木の下で彼女は殿様を待っていた。今の木は150年前後だからその先代の木があった。かまどまの姓は不明だからだれが子孫かわからない。自称「子孫」はいるらしい。
船浮御嶽の鳥居は明治に建てられた。テーブルサンゴの石を積みかさねた石垣があり、石垣の真ん中にあいた入口の上に大きな石をのせている。入口には香炉が置いてある。その奥は女性しか入れない。儀式を司るツカサになるのは決まった家系の女性だけ。池田家もその家系で、曾祖母はツカサだった。
ツカサになると、種取りや田植え…といったたくさんの儀式があって自分の仕事はできなかった。行事によっては社に3日間こもることもあった。米粒を使った占いのようなこともした。だから、食べ物は周囲の人がもってきた。今は現金収入も必要だからツカサだけをするわけにはいかない。なり手もおらず、祭りもだいぶ簡素化してきた。
65キロの丸い石がある。これを肩まで上げる競争する。上げられた人が何人もいたら回数を競う。優勝したら金一封もらえる。今年は10回もちあげた先生が優勝した。これは熊野古道の田中神社の力石と似ている。
小中学校の運動会は大人はもちろん、近隣の4つの学校からも集まる。今年も200人集まった。東京や大阪から運動会に通う人がいる。6年連続で来ている人も。
池田さんの祖父が1975年、鶏小屋を襲ったヤマネコをつかまえた。1967年に天然記念物に登録されてからはじめて捕獲されたのがここであり、民家で捕まったのもここだけ。最近はめったに見なかったが3年前、集落にあらわれた。人がたくさん集まって動けなくなり、半日集落にいた。弱っていたのを保護した。
白浜から船浮のあたりを通って大原まで道路をつくる計画があったが、1967年にヤマネコが天然記念物になって止まった。船浮の先には、網取、崎山、鹿川という集落があったが、廃村になった。網取は1971年に無人になったあと、東海大の拠点があって5年前まで学生がいたから定期船もそこまで行っていた。
懐かしい資料館を見学した。
イダの浜へ歩く。
昔の井戸。昔の水源。大きな塔は今の水源だ。
墓は広々としている。旧暦1月16日にはここに集まって宴会をする。だから「墓が怖いというイメージはなかった」と池田さん。里芋のような植物は「クワズイモ」。食べたら腹を下すらしい。
オオタニワタリは先端がくるりと巻いた葉の先端の半分ぐらいだけをちぎって食用にする。
ヘゴの巨大なゼンマイのような芽ががあった。これを食べる。幹も食べるという。
600メートルほど歩くと真っ白なイダの浜に着いた。最近は「一番美しい浜」と紹介されて旅行者が増えてきた。夏は500メートルほど沖に船が何隻もとまってシュノーケルをしているという。
(つづく)
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