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2015沖縄6 最奥の島の炭坑跡

朝9時、「ふね家」の池田さんという40代の男性が迎えに来てくれた。聞いたら船浮の資料館を開いた人がお父さんだった。残念ながら3年前に亡くなったという。車で聞いた彼の解説はおもしろかった。

道路に、眠気防止のためかガタガタと鳴る障害物がある。これはヤマネコが驚いて逃げるように設けたものだという。時折、「子猫注意」の看板も。
ヤマネコは推定100頭しかいない。かつては船浮の集落まで出てきたが、今はめったに見ない。70歳以上の人は、イノシシのワナにかかるヤマネコを鍋にして食べていた。鶏肉に似た味だった。小さな島にヤマネコがいるわけがない、野良猫ではないかとずっと思われていた。新種のヤマネコと判定されて以来、食べることはなくなった。

琉球イノシシは大きいものでも40キロ程度。血抜きをしなくても臭くないが、そのままでは肉が真っ赤だから、外に売る人は血抜きをしてピンク色の肉にする。バーナーで丸焼きにしてたわしでこするとブタのように真っ白になる。焼いていると髪の毛のこげたにおいがするから、イノシシがとれたな、とわかる。11月15日から2月15日まで3カ月間が猟期という。
イノシシで生計を立てる人は3カ月間で300頭とる。1頭3万円で売れる。人を雇って山から運び出している。全部一人でやる人は1日に1,2頭とるのが精いっぱいだ。

左手に高さ60メートルのピナイサーラの滝が見えると、まもなく海中道路に。島の東部と西部が、この道ができることで連結された。それまでは干潮のときにわたっていた。
祖納(そない)には昔、役人がいた。このへんを「いりおもて」(西の表)と呼んだ。それが島の名になった。
対岸の外離(そとばなれ)島には「裸のおじさん」が25年間住んでいた。12月13日が誕生日で今は80歳。今は別のところに移った。
日本最西端のトンネルをくぐると白浜の集落に入る。県道の終点は学校につきあたる。小中学校だったが、中学は廃校になって小学校だけになった。2階建て校舎を平屋建てに建て替える工事をしている。−−−−。

白浜港-3

白浜でグラスボートに乗り、目の前の内離(うちばなり)島へ。
手作りの浮き桟橋に上陸してジャングルの木道を歩いて行く。

内離島の炭坑-3

この島の3分の1は東京の人が最近所有者になった。その人の許可を得て、木道なども整備した。
ここが「竹富町字西表一番地」。炭坑時代に郵便局があり、局を基準に番地をつけたからそうなったらしい。
最盛期には島に2800人が住んでいた。ちなみに西表島全体の現在の人口は2300人だ。

内離島の炭坑-珪化木と石炭-2

石炭が転がっている。石炭に似ているが珪化木は、ちょっと白い部分がある。これは石炭のなりかけ。両者を比べると、石炭のほうが軽い。

内離島の炭坑-14

ギランイヌビワ(クワ科) 実が幹に直接ついている(幹生花)。花をつけずに実をつける。この実はあくが強いが、1メートルにもなるオオコウモリが食べる。

内離島の炭坑-16

ヒソダケという竹の竹の子は1メートルほどの長さで、節の部分を捨てて5センチぐらいに切って炒めて食べる。

内離島の炭坑-トロッコ-1

トロッコのレールの一部が残っている。炭坑は終戦間際まであったが、戦後、鉄を使うため、レールをはぎとってしまったらしい。

内離島の炭坑-坑口跡-9

山の斜面に坑口跡がある。高さ1メートルほどの穴だが、中に入ると2メートルほどになる。島内には20ぐらいの坑口があった。ここは水平に掘っていたという。

内離島の炭坑-共同風呂-3

ちょっと下に「共同風呂」。風呂といっても、コンクリートの壁面の穴の栓を抜いて水浴びをするだけ。水浴びだけだと汚れがとれないから蚊が寄ってくる。これもマラリアの一因となった。

内離島の炭坑-ビール瓶-4

飲み水用のタンクが残っている。食器やビール瓶、皿なども。瓶には「さくらビール」「大日本ビール」などと記されている。

琉球王朝時代、ある少年がたき火していたとき、石垣に火が燃え移った。それで「燃える石」が発見された。王朝は存在を知っていたが活用しなかった。
ペリーが浦賀からの帰りに琉球に寄って地質調査をした。断層がみえるところは木を植えて隠し、箝口令が敷かれた。ペリーは4度寄港しているが気づかなかったらしい。
明治になって薩摩藩に、石垣島の人が「燃える石」のことをもらしてしまった。その人は波照間に10年間の島流しになったが、琉球王朝がなくなってもどってきた。
明治18年に三井物産が炭坑をつくり囚人180人を導入したが、マラリアで次々に犠牲者が出て断念した。その後、オオクラ組などが入ってきた。
県内の人はマラリアの怖さ知っているから、坑夫は県外の人ばかりだった。渡航費を借金している坑夫は、ここでは軟禁状態にされた。逃げても地元の人はかくまってくれず、警察に突き出された。
石炭は中国・台湾に輸出していた。沖縄県で最初の税関もここにあった。長崎税関の出張所だった。
当時はこの島が八重山で一番栄えていた。石垣島の人が裸足で歩いているときに、ここの人は靴を履いていた。
小学校や郵便局、商店もあった。炭坑切符と呼ばれる金券で給料を払っていたから、労働者は外に逃げられない。商店は物が豊富で、労働者はつけで買うから、さらに借金で縛られた。地元の人は、野菜や魚をもってきて坑夫に売って炭坑のカネを得て、売店でめずらしい商品を買って帰った。
対岸の白浜の集落は、大正時代、炭坑の管理をする人たちが住み着いて集落が形成されたという。

昔の集落は湿気がない場所にあったから蚊がたまらず、マラリアは問題にならなかった。だが戦争中、山に疎開することで爆発的に流行した。波照間島の人は軍によって西表のハエミダなどに強制疎開された。マラリアでほとんどの人が亡くなった。

こうした歴史は池田さんの父とその同級生が調べてきた。
この炭坑と、もうちょっと近代的で劇場もあった浦内川の炭坑は2007年に近代化遺産群に指定された。沖縄では、西表の炭坑跡と、本島の精糖工場(黒砂糖)が指定され、「ふたつの黒ダイヤ」とよばれた。

内離島の炭坑-36

再びグラスボートに乗る。

船浮と白浜の間は、潮が引くと浅くなり砂の島があらわれる。
浚渫して幅30メートルほどの水路をもうけた。
干潮のときに通ると、イノシシが泳いでいるのに出くわすこともあるという。
山に囲まれた湾だから、国際避難港にもなっている。40年前までは、台風時は40−50隻が避難してにぎやかだった。夜、陸側からながめると船のあかりがたくさん浮かんで、まちのように見えた。戦争中は軍港になっていた。

 グラスボートでサンゴとウミガメ-16

グラスボートで珊瑚礁を案内してもらう。おもしろいけど、シュノーケルで泳いで見学したい。
枝サンゴの先端が光っているように見えるのは、新芽のようなもの。テーブルサンゴも豊富だ。沖縄でも種類がとくに多い海という。青色のブダイ(イラブチャー)は煮ても青い色が残るから気持ち悪いそうだ。

深くなる斜面のようなところにウミガメがいた。最大のもので1メートルほどあった。(つづく

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