レンタカーを借りてまずは辺野古へ。
途中のサービスエリアにきのう食べた田芋を使ったパイがあった。ヤギ乳といっしょに買って食べた。
辺野古の座り込みはまさに国道沿い。左右をキャンプシュワブに囲まれていて、その門の近くの歩道に仮設のテントがいくつもある。ゲートの前では日本妙法寺のお坊さんが題目を唱えていた。
予定地の海が見える大浦へ。海のむこうに辺野古の岬がみえる。その根元に建物やクレーンがいくつも建っている。米軍基地になっていて、岬には立ち入れない。
道の駅のような施設がある。駐車場にでっぷり太った黒人がぶらぶらしている。車のナンバーをチェックしているのだろうか。
売店は品揃えが豊富。パパイヤ、パイン、そのまま食べられる熟したシーカーサ−、キンカン……。大浦湾の自然保護関係の書籍もあるから、基地反対派なのだろう。
Uターンして南部の平和資料館へ。
ところが、すごい渋滞に巻き込まれた。那覇マラソンがまさに平和資料館のところで折り返す。そのランナーの群と出くわしてしまった。
時間をつぶすため、植物園?のような観光施設のレストランで昼食をとることにした。ピザはキンジソウやゴーヤなどが載った沖縄風。30分後には渋滞が消えたから平和資料館へ。
15,6年ぶりだろうか。ずいぶん大きく新しい施設になっている。
関東の高校生が修学旅行に来ている。男子は戦闘機や戦艦を見て「かっけー」。ガマを再現した洞窟のジオラマのなかで、女子はお化け屋敷を見るように怖がって「ムリムリムリ」と騒いで引き返していた。青酸カリで殺したり、赤ん坊の口をふさいで殺したり、といった展示だ。
以下、メモ。
・1880年、日本の分島・増約案「宮古・八重山を中国領土とする」と清に提案した。(本土では知られていないが、切り捨てられようとした側は記憶を受け継いでいる)
・ホタルの光の歌詞は時代によってかわり、ある時代は、日本の領土を千島から沖縄と書き、別の時代は、台湾から樺太と書いていた。音楽で領土の範囲を示していた。
・南洋移民 沖縄から1940円に56000人で、日本の移民の7割を占めた。
・国家神道を押しつけるため、ウタキに神社を建立し、神道に組み入れようとした。特高がユタを取り締まる。改姓改名運動や標準語運動なども。朝鮮での創氏改名と同じようなことをされてきた。(〓沖縄を見ると朝鮮にやったことが想像できる)
・慰安所 女性の多くは朝鮮半島から強制的に送られてきた。
・日本の軍事費は1931年は国家予算の30.8%。1944年には78.7%に。
・「方言を使う者はスパイとして処分する」という通達も出された。
・米軍は3月26日に慶良間群島に上陸し、本島上陸の根拠に。
4/1、本島の読谷や北谷あたりに上陸。4・11 東洋一の飛行場のあった伊江島へ。5月には収容所で「戦後教育」がはじめられた。
・中部戦線の米軍は26000人死傷。日本軍は64000人戦死。残り4万人で南部に撤退し持久戦に入った。本土決戦への時間稼ぎだった。それによって多くの住民が巻き込まれた。
20数万の犠牲者のうち、122000人が沖縄出身者で94000人が一般住民だった。日本軍による住民の拷問、乳幼児殺害……も。
・牛島司令官が「最後の一兵まで」と言い残した。それが住民を巻き込む要因のひとつとなった。
・証言室 145人分の証言を並べている。
・台湾やフィリピンにおける沖縄の人の歴史を紹介した企画展もおもしろい。「憲法のない」占領下の沖縄を紹介する企画展も力作だった。憲法の条文が沖縄では生きている。重みをもって感じられている。
雨が降りはじめた。
那覇にもどると、まちに入る直前で大渋滞に。これもマラソンの影響だった。
夜は国道沿いの「ハイウェー食堂」という24時間の食堂に入った。24時間食堂なのに、ステーキ(サーロインかリブ)200グラム1100円、400グラム1900円がよく売れている。それに汁物とご飯とサラダがついている。いかにもうまそう。
オレは中身汁630円を頼んだ。ごはんと卵焼きと缶詰のポークがついてきた。これだけで腹いっぱい。安上がり。
国道を県庁方面に歩くと、海側のアパホテルの裏にソープ街があった。国道には24時間の食堂が何軒もならんでいる。精を付けて励めということか。
こちらのチャンポンは麺ではなくご飯の上に卵に閉じた具が載っている。この食生活をつづけたら、沖縄の寿命も縮まるわけだ。
レンタカー7560円 ガス代 1200円
ピザ1200円 コーヒーとマンゴジュース=1800円
夕食1600円
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13500円 (12/6) (つづく)
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