7時から朝食。フェリーが港に入ってくるのをのぞめる絶景の部屋と食堂だ。
9時前、隠岐牛の店の裏にあるNPOの事務所へ。1人3500円と写真を撮ってもらうってことで、7500円。シューズにはきかえる。
湾の反対側の突端にカヤックがおいてある。ちょっとした講義のあと、沖にこぎだす。久しぶりだ。
エチゼンクラゲがあちこちに浮いている。ひとかかえはあるほど大きなものも。
笠の部分はコラーゲンのようでプニプニしているが、足にさわるとかゆくなるという。足がちぎれてただよっているのがやっかいだそうな。
昔はこんなクラゲはいなかった。中国の三峡ダムの工事の影響ではないかとガイドの昭和45年生まれのメタボ系ニイチャンは言う。
北京五輪があった去年は、環境問題に気をつけたせいか、エチゼンクラゲの発生も少なかったという。
西から東に流れ、東にむかうほどクラゲはどんどん巨大化するとか……。
カワハギの養殖のえさにするとか、人間が食べる食品に加工するとか〓、あちこちで考えているらしい。
洞窟を探検したり、波でえぐられたトンネルをくぐったり、なかなか楽しい。
カルデラでできた内海は波が穏やかだが、外海にいくにしたがって、うねりがでてくる。
漁師のおっちゃんが「この先はアブナイぞお」と叫ぶ。
海士町出身のガイドの兄ちゃんは、「わかってます」と答える。
サザエをとる海士さんがあちこちにいる。獲物を入れる容器を浮かべ、もぐったりあがったりの繰り返し。
10メートルほど素潜りでもぐるという。
もともと昔は海士町は青年団活動が盛んで、人形劇をやって島外にも巡業するほどだったが、お兄さんの世代にはそんな活動はなくなり、青年同士のつながりは消えていた。
それは不健全だと思って、有志があつまり、何をやろうか話しあった。
カヤックはそのときに思いついたが、最初は自分たちが遊べればよいと思っていた。
静岡の知りあいからNPOづくりを教えてもらい、NPOを結成した。
電話の権利金も払えず、パソコンも商工会からの援助で買った。
しだいに軌道に乗り、「海士人」という沖縄のウミンチュを真似たようなTシャツをつくった。
東京のデザイナーが友人でデザインは無料だった。
島の人口の倍をこえる5000ほど売れた。島外にいる息子らに送ったという。
今じゃユニホームのようになっている。
カヤックのコースはみんなで試行錯誤した。洞窟とかは、地元に住んでいても知らなかったという。
大阪は公立病院の産婦人科は2年待ちだという話をしたら、
「ここは墓石屋が2年待ちです。墓の生産が死ぬ人数に追いつかない」という。
隠岐では海士町にだけ、野ウサギがいない。後鳥羽上皇が食べてしまったから、というのは本当だろうか? と聞くと、
そうじゃなくて、因幡の白ウサギにでてくる白ウサギが海士の出身で、本土に渡ってしまったからいなくなったという。
「野ウサギはいないけど、おふくろが子どものころは飼いウサギを食べてた」と言う。
7月にはNPOで島の反対の端っこで「移動ビアガーデン」を開いている。そこから菱浦までタクシーでは3000円もする。
だから年寄りはほとんど外食しない。
移動ビアガーデンはけっこうな人気だという。
兄ちゃんは大学は京都。大阪京都で働き、10年ぶりに帰郷した。ロックが大好きで、毎年大阪にでかけてコンサートをみている。
子どもの頃は子どもの背丈くらいまで雪がつもったが、いまはくるぶし程度。
2時間ほどのツアーを終え、キンニャモニャセンターの食堂は定休日だから、「隠岐牛」の店にはいる。
定食は1600円。牛丼は850円。それと生ビール。
肉はさすがにおいしいが、100グラム1500円もだすかどうかは微妙かな。
内航船で別府港へ。別府の民俗資料館には、アワビ漁と「イカ寄浜」などのイカ漁の様子のビデオがある。
今でもイカが押しよせるときがあることに驚いた。
たんなる伝説ではなかったのだ。
10メートル以上素潜りするアワビ漁もすごい。2キロもある大物がとれていた。
昔、隠岐馬という在来種の馬がいたが、大型馬に改良するため、馬政計画で明治39年と昭和11年に雄を去勢したため、絶滅してしまったという。ハイチのクレオール豚を思い出す。
穏やかな海がかつて飛行場だった。
13時50分の高速船レインボーに乗って、七類に帰る。
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