奈良盆地には出雲系古代人がかかわる神社や旧跡が多い。盆地の東側の三輪大社やダンノダイラを訪ねたから、西側の金剛山・葛城山のふもとを訪ねることにした。
縄文からつながる鴨族の拠点
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盆地の底から金剛山の中腹に近づくと、山腹は想像以上に広々としていて、八ヶ岳などの山裾を思わせる。そんな気持ちのよい山腹に高鴨神社はある。
山梨や長野では、こんな場所に縄文遺跡が点在していたが、この神社周辺にも縄文遺跡があり、縄文晩期から集落があったという。縄文期から今にいたるまで聖地の機能を持続してきた。「最古の神社のひとつ」と説明されている。
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主祭神は阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)で別名は迦毛之大御神(かものおおみかみ)。青森から鹿児島まで300社ある全国の鴨(加茂)系の神社の元宮で、「大御神」という名は記紀には,ここのほかアマテラスとイザナギとイザナミしかいないという。
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鳥居をくぐると左側に池があり、そのむこうに金剛山がそびえている。古くからの聖地であることがよくわかる。金剛山が本来の御神体なのかもしれない。
池の畔にはいくつもの祠がたっている。稲荷神社は伏見稲荷一緒で赤い鳥居がならび、祠の前にはキツネがすましてつったっている。キツネが口にしているのは油揚ではなく巻物らしい。池のほとりから階段をのぼると室町期にたてられた本殿(国重文)がある。
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鴨族は、葛城の山を支配した一族で、天体観測や薬学、製鉄などの技術に長けていた。修験道の開祖である役行者は、陀羅尼助(だらにすけ)という薬を生みだし。天体観測は陰陽道に通じて安倍晴明の師匠である賀茂忠行も鴨族だった。金剛山は明治4年までは女人禁制だった
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵地帯から大和平野の西南端である現在の御所(ごせ)市の中心にくだり、葛城川の川べりに鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめた。
高鴨神社近くには「高天原」伝説の地もあるが、当初の予定どおり「鴨都神神社」をめざす。中腹を走る道路からは大和三山がポコリポコリと浮島のようにそびえる奈良盆地が一望できる。こういう景勝地だから信仰の場がいくつもできたのだろう。
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御所市街にある「鴨都神神社」の祭神は、積羽八重事代主命(つわやえことしろぬしのみこと)。コトシロヌシだから恵比須さん。オオクニヌシの子だから当然出雲系だ。三輪山の大神神社は大物主大神(オオクニヌシ)が主祭神だから、その別宮と称されている。また「鴨の水辺で祀られる田の神」もまつっていたらしい
周辺には弥生から古墳時代の遺跡が多く、弥生の拠点的大集落がそのまま継続しているという。
高鴨にたいして「下鴨」と呼ばれ、全国の鴨社加茂の源であると説明されている。
高鴨から下鴨の関係は、京都の上賀茂神社と下鴨神社、縄文と弥生、山岳信仰と水田の信仰の関係とパラレルなのだろう。
被差別のムラのわきに神武天皇社
3キロ東の水平社博物館(御所市柏原)もついでに見学した。(500円)。全国水平社の発祥の地である。
部落差別の起源からときおこし、水平社運動がどう生まれ、たたかわれてきたかが展示されている。西光万吉とか松本治一郎とか米田富とか……「正史」にはでてこない「叛史」の英雄の歩みが興味深い。
「コロンブスがアメリカを発見」という言説にたいして、先住民族の立場から「抵抗の500年」をかかげたアメリカ大陸の運動を思いだす。歴史を被差別者の側から照射する博物館は、在日コリアンやハンセン病の資料館など日本には数えるほどしかないだろう。
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博物館と向き合って西光万吉が生まれた「西光寺」がある。
その目の前に、「『解放令』から五万日目」の記念碑がたっている
ここ柏原地区では、1871(明治4)年の「解放令」発布直後に「あのお触れは5万日の日延べになった」という話が流れた。解放令に反対する部落外の名主が流したデマだった。137年後、5万日めにあたる2008年9月3日に碑がたてられた。差別の時間感覚をダイナミックに表現している。石碑って意味があるんだなぁと思った。
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水平社博物館の隣の高台には「神武天皇社」がある。神武天皇が即位した場所と伝わっている
橿原市の「神武天皇陵」を大正年間に拡張整備する際、隣接する洞村という被差別部落が土地を「献納」させられ、全戸移転した。差別事件として博物館でも紹介されている。
なのに神武天皇社が水平社博物館と隣接している。
「神武天皇社」のわきの説明板には、明治のはじめ、神武天皇の宮跡に指定されると移住せねばならなくなるから全ての文書を処分した……と記されていた。
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柿本人麻呂の悲劇
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近鉄新庄駅のすぐ近くにある柿本神社に寄った。
石見国(島根県益田市)で没した人麻呂を770年に改葬して、かたわらに社殿を建てたとされ、江戸時代の郡山藩主、松平信之が建てた人麻呂の墓もある。
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梅原猛によると、この神社をはじめ、各地につたわる人麿(人麻呂)像の首は、すぽっとはずれるものが多い。さらに天平年間には人麿は水難の神になっている。
人麿が水死というかたちで処刑されたことをしめしているのではないか、と梅原は論じている。
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