はげ山のグランドキャニオン
中学生だった1980年ごろ、家族旅行で足尾町(栃木県日光市)をおとずれた。群馬県桐生市から渡良瀬川の谷をさかのぼると、樹木が1本もないはげ山がつらなっている。谷底の渓流はすきとおっているが、魚影はない。1973年に閉山されたばかりの足尾銅山の煙害によって樹木が枯れてグランドキャニオンのような光景となり、鉱毒によって魚が死にたえたのだ。怪獣映画の一場面をみるようでゾクゾクと興奮したのをおぼえている。
2023年7月、40年ぶりに足尾の谷に足をふみいれた。
まずは「わたらせ渓谷鐵道」通洞駅の南400メートルにある通洞坑にむかう。旧足尾町役場や消防署が通洞坑と隣接し、足尾の町が銅山を経営する古河鉱業(1989年から古河機械金属)の企業城下町であったことがわかる。
足尾銅山観光(入場料830円)のトロッコで坑道にはいるとひんやりして、外気温は35度もあるのに半袖では寒い。蟻の巣のような地下の坑道をあるくと、江戸時代から明治、大正、昭和と、鉱山の発展の様子をたどれる。
足尾銅山の開発は1610年ごろはじまり、銅の8割は幕府御用、残りはオランダに輸出されたが、地下水の湧出で幕末には廃坑同然になる。
1876(明治9)年に払い下げをうけた古河市兵衛によって良質の鉱脈が発見され、銅が輸出産品となって拡大し、1884(明治17)年には住友の別子銅山(愛媛県)をぬいて全国一になった。
鉱山からでる1日2万トンの水(1958年当時)はふたつの浄水場にあつめられ、石灰で中和される。硫酸銅と石灰が反応して水酸化銅と石膏が沈殿する。その沈殿物を「簀子橋堆積場」にためてきた。
鉱山時代からの膨大なカスは14カ所に堆積しており、2011年の東日本大震災でも一部の堆積場が崩れて鉄道をストップさせた。大雨がふれば今でも鉱毒が下流にながれる。鉱害はおわっていないのだ。
煙害で消滅した村
銅山観光から渡良瀬川沿いを3キロほどさかのぼった間藤駅が「わたらせ渓谷鐡道」の終点だ。ここから先は銅をはこぶ貨物専用の線路があったが、数百メートル先でとぎれている。
間藤駅から2キロさかのぼった「愛宕下」には、銅山住宅の煉瓦塀がのこっている。1956年には181世帯819人、1973年の閉山時は110世帯377人、1997年にも13世帯24人がすんでいた。谷の対岸には「本山製錬所」の大煙突がそびえている。
ぼくがたずねた1980年ごろ、周辺はすべてはげ山だったが、今は大半が緑におおわれている。意識しないと「グランドキャニオン」時代の様子はわからない。
車道の終点の足尾ダムの下にある銅(あかがね)親水公園に「足尾環境学習センター」という資料館がある(200円)。
大阪府寝屋川市や東京都立川市とほぼおなじ広さの計2500ヘクタールのはげ山で1980年からボランティアによる植樹がはじまり、少しずつ緑が回復してきた。
このセンターから上流に徒歩1時間の谷にはかつて上都賀郡松木村という独立村があり、1892(明治25)年には40戸267人が農林業をいとなんでいた。
足尾銅山は1884(明治17)年、当時の先端技術を導入した直利橋製錬分工場(本山精錬所)を新設した。国内の26%の銅を産出し、別子銅山をぬいて日本一の銅山になったのもこの年だ。このころから、排出される亜硫酸ガスによる立ち枯れがひろまり、87年には渡良瀬川から魚が消えた。
松木村は、昼でも太陽がみえないほどの灰色の煙でおおわれ、農作物も木々も枯れた。村人は田中正造らの力をかりて1901(明治34)年1月に「煙害救助請願書」を政府に提出したが改善されず、本山精錬所稼働からわずか18年後の1902(明治35)年、最後にのこった25戸が、総額4万円で銅山に村を売却し、廃村となった。示談契約では、村民は今後いっさい、子孫にいたるまで煙害にたいする損害を請求しないとされた。まずしい住民の足もとをみるような不平等な契約は戦後の水俣病の「見舞金」などでも踏襲された。
センターの展示は想像以上に充実している。「環境学習センター」なんて抽象的な名ではなく、「煙害で消えた村の記憶館」とでも名づけたほうがよいのではないか。
本山精錬所跡の巨大煙突を対岸にのぞむ龍蔵寺には、ピラミッド型の無縁仏の石塔がある。松木川・仁田元川・久蔵川の合流点に1956(昭和31)年に足尾ダムが完成した際、ダム建設によって水没した松木村などの無縁仏の墓石をあつめて合祀したものだ。
鉱毒汚染で農民が「押出し」
銅山の上流にあった松木村は煙害によって絶滅したが、下流の村々をおそったのは鉱毒に汚染された「水」だった。
渡良瀬川は、群馬県と栃木県の境にある皇海山(すかいさん)から関東平野にくだり、約107キロで利根川にながれこむ。
江戸時代からしばしば洪水をおこし、とりわけ利根川との合流点で、三方を堤防にかこまれた栃木県下都賀郡谷中村(栃木市藤岡町)は、明治にはいってからも3年に1度は洪水にみまわれた。だが洪水によって山の肥土がながれこむため、無肥料で作物がそだち、漁獲も多く、農漁民にとっては豊かな村だった。
渡良瀬川流域の農民は1889年と90年の大洪水で、鉱毒水につかった農作物が腐ってしまったことで鉱毒反対運動にたちあがり、1896(明治29)年9月の洪水で被害が拡大すると、翌1897年3月、「東京押出し」(大挙上京請願運動)を決行した。銅山の停止を政府機関に請願し、議員たちに「被害地惨状御見聞願」のチラシをくばった。それが大々的に報道されると、政府は足尾銅山鉱毒事件調査委員会(第一次鉱毒調査会)を設置し、その上申にもとづいて 5月には古河市兵衛にたいして鉱毒予防命令がだされた。
1898(明治31)年6月には、大隈重信を首相とする日本史上初の政党内閣(隈板内閣)が発足した。自由民権運動の流れをくむ政府だから足尾銅山の停止もありうるのではないかという期待もあったが、隈板内閣は半年で崩壊した。
足尾の鉱毒はまったく改善されず、第2回、第3回と「押出し」がくりかえされ、1900(明治33)年 2月の第4回押出しでは、1万2000人が東京をめざした。利根川の渡し場でまちうけた警官隊に襲撃され100余人が逮捕された(川俣事件)。この弾圧を機に鉱毒反対闘争は退潮をよぎなくされる。
最後の手段の「天皇直訴」
田中正造は、1890年(明治23)年の第1回衆議院議員総選挙で当選し、衆院議員として鉱毒反対の論陣をはってきた。だが「押出し」が挫折し運動が停滞すると、1901年(明治34年)10月に議員を辞職する。
2カ月後の12月10日午前11時45分、帝国議会開院式から皇居にもどる天皇の馬車にむかって、人混みのなかからひとりの男がかけだした。
「おねがいでございます」「おねがいでございます」
外套や帽子をぬぎすて、右手に「謹奏」としるされた直訴状をかかげてさけぶ。正造だ。
近衛騎兵が剣で突き刺そうとしたが落馬した。正造もつまずいてころび、警官にとりおさえられた。
この「直訴事件」によって世論はふたたび沸騰した。
岩手県の中学生石川啄木は仲間たちと「八甲田山遭難事件」の岩手日報号外を売り、それで得た金を足尾鉱毒被害民らへの義捐金とした。正造の本葬をした佐野市街の惣宗寺(佐野厄除大師)には、正造の墓の隣に、直訴の感動をうたった石川啄木の歌碑がある。
夕川に葦は枯れたり 血にまとう民の叫びの など悲しきや
鉱毒の現場への視察もあいつぎ、キリスト教や仏教系の学生たちは「鉱毒視察修学旅行」を組織した。
それにたいして政府は、団体や個人の被害地視察を禁じ、学生の演説も禁止した。
鉱毒問題を治水問題化、谷中村は遊水池化で廃村
直訴の5年前の1896年の大洪水で、鉱毒水は江戸川をくだって東京までながれこんだ。衝撃をうけた政府は、利根川から江戸川に分岐する関宿の江戸川流頭の川幅を、26~30間(1間=1.8メートル)から9間強にせばめ、利根川から江戸川にながれる水量をしぼった。さらに、利根川にながれこむ渡良瀬川の河口を拡幅し、洪水時に利根川の水が渡良瀬川に逆流しやすくした。これによって渡良瀬川と利根川の合流点付近は氾濫が頻発するようになり、鉱毒激甚地となった。
「直訴」によって政治問題化した鉱毒問題に対処するため政府は1902年3月、「第2次鉱毒調査会」を発足させた。だがその報告書(1903年)は、鉱毒は過去の鉱山が原因として企業責任を免罪し、洪水の原因が、煙害による水源地帯の荒廃にあることも無視した。1904年の日露戦争開戦をひかえ、富国強兵をめざす大日本帝国が東洋一の銅山を停止するわけがなかった。
そのころ内務省はひそかに、栃木県の谷中村、埼玉県の利島・川辺両村(現在の加須市)で遊水池化を計画していた。鉱毒のもとである銅山を閉鎖するのではなく、「治水問題」におきかえようとしていた。
1902年1月、遊水池計画を知った利島・川辺両村がたちあがる。
正造は両村に9日間滞在し、住民たちに土地を売らず、買収に強く反対するよう説いてまわった。その結果、10月16日、両村合同村民大会がひらかれ、「県庁にして堤防を築かずば吾等村民の手に依て築かん。従って国家に対し、断然納税兵役の二大義務を負はず」と決議した。
県庁が遊水池化を理由に堤防をきずこうとしないなら、自分たちできずく。そのかわり、納税・兵役の「二大義務」を拒否する--。両村が強くせまることで、埼玉県は買収を断念した。
正造の尽力に感謝し、北川辺西小学校の片隅に、正造の分骨をおさめた「墓」がたてられた。学校には「正造さんの部屋」もあるという。3階建ての学校は「災害避難所」だが「水害時は利用不可」らしい。遊水池が計画されるほどの低地だからだ。
遊水池化のもうひとつの標的が、利島・川辺両村の北にある栃木県下都賀郡谷中村だった。正造は反対運動をささえるため日露戦争中の1904年7月に村に移住する。
栃木県会は一度は谷中村買収案を否決したが、政府と県によって切り崩され、1904年12月10日の秘密会で谷中村買収費を可決した。
1905年になると、県は谷中村の買収に着手する。荒畑寒村の「谷中村滅亡史」によると、青年を賭博や売春にさそって借金をつくらせて家を売却させ、日露戦争の従軍兵士の留守家族宅に県の役人らがおしかけて承諾をせまった。同様のことが、戦後の原子力発電所などの開発でくりかえされている。住民切り崩しの手口も足尾銅山は「原点」なのだ。
かつて「反鉱毒」で団結していた渡良瀬川流域の農民たちは、谷中村に遊水池ができればそれ以外の村は鉱毒被害をまぬがれるという宣伝におどらされ、運動から離脱する。県当局の切り崩しで、有力な農民活動家が次々に県側に寝返った。
谷中村会が選出した村長を県は認可せず、郡の役人を管掌村長として派遣し、1906年3月には、村会の決議を無視して小学校を廃止した。7月には村を廃止して藤岡町と合併する案を、村会の否決にかかわらず、管掌村長が決めてしまった。
その後、450世帯2700人の多くは買収に応じた。1907年1月には、堤内にのこっていた16戸が強制的に破壊された。116人の農民は仮小屋をつくり、以後10年間、村復活をめざしてすみつづけた。
正造晩年の治水行脚
正造は日露戦争中の1904年に谷中村に移住し、国による治水対策の欠点を指摘してきた。
1910年8月、未曾有の水害が関東地方をおそった。正造は、利根川水系をひたすら歩き、住洪水時の水位と被害実態をきいてまわった。その結果、1907年以前とくらべて、上流と下流は水量が少なく、中流域のみ大洪水だったことが判明した。「利根川流水妨害工事(が原因の)人造ノ大災害タリ」という自説の正しさが確認できた。
1913年4月半ば、カツ夫人のもとに「三晩という長泊まり」をした。正造はカツ夫人との59年間の結婚生活で、いっしょに暮らしたのは計3年ほどにすぎなかった。自宅に3泊もするのは稀有のことなのだ。
「あとで、あんなに長泊りするようではもうお別れに来たのではないかと話していましたのですが、本当にまもなく病みついて、あんなことになったのです」
カツ夫人はそう回想している。
運動費調達のため旧友を歴訪する「托鉢」途中の8月2日、谷中に帰る途中で、渡良瀬川沿いの栃木県吾妻村(佐野市)下羽田の庭田清四郎宅に、人力車からころげおちるようにおりると、正造はそのまま寝ついてしまう。
「谷中へ行く、谷中へ行く」
「早く谷中へ知らせろ、担架ではこばせろ」……
そう言って首を振ったり手をもがいたりしていたが、9月4日昼すぎに息をひきとった。71歳だった。
仮葬儀は庭田家のちかくの雲龍寺(群馬県館林市)ですませた。この寺はかつて「足尾銅山鉱業停止請願事務所」として、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県鉱毒被害民の闘争本部となっていた。境内には、正造の分骨の墓と、木像をおさめた救現堂がある。「救現堂」の名は、死の床にあった正造が「現在を救え、ありのままを救え!」とさけんだことで名づけられた。過去に規範をもとめる儒学とも、未来に前のめりになる社会主義とも異なる「いま・ここ」を大切にする視座である。
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田中正造は戦前、命をかけて天皇にすがって直訴した「義人」、あるいは、死後5カ所に分骨された「聖人」とみなされた。だが、「義人」「聖人」視への違和感を群馬県館林市の「足尾鉱毒事件田中正造記念館」で耳にした。戦後すこしずつみえてきたという正造の実像を次の記事でたどってみたい。
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