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志度から大窪寺

 山道があったため、歩いたのは20キロ程度。15時前には最後の札所に着いてしまった。つかったカネは、419円+手ぬぐい300円。

 6時半に出発。夜明けの旧街道は商家の堂々とした建物が黒く沈んでいる。15分ほどで街道の突き当たりの志度寺に着く。平賀源内の墓もある。世紀の大天才は最後は獄中で死んだという。寺にいるあいだに次第に明るくなり、魔術がとけていく。

 早朝、夜明け前を払暁という、その言葉が仏から来ているのかどうか知らないが、神秘的な響きが、夜明け前後の魔術がかかったような時間にぴったりだ。靄がかかり、空の縁が白みはじめ、朝露に光りがきらめき、しっとりとしている。
 あっという間に神秘のベールははぎとられ、その後に通学の子が行き交う。子供の動きが「日常」を呼び覚ます。
 オレンジタウンという名のニュータウンが谷をはさんで反対側の山肌に切り開かれている。崖下というくらい急な斜面の下にまで家がある。大丈夫か? JRが開発した「セキュリティタウン」だという。だから駅名にもあるのか。


 旧道にはいる。8時、玉泉院という番外札所?で10分間休憩。長尾寺までのちょうど中間点だ。山門が嵐山の落柿舎のよう。
 県道をたどり、途中から旧家の多い街道ふうの町並みにはいる。長尾は、だだっ広い平野にある街だ。税務署やらなんやらもある。コンビニでにぎりめしと甘い牛乳パン、ペットボトルの茶(419円)を買う。けっきょくこれが朝昼兼用になってしまった。

 9時、長尾寺に着く。門前には旅館が数軒ある。大通り沿いは特徴のないどこにでもある風景だが、1本はいった寺の周辺は昔ながらの門前町の風情がある。寺の「門前町」って、福祉や地域のつながりにも重要な役割を果たしているような気がする。(とげ抜き地蔵〓)
 平地にあるだけあって、小学校の校庭のような平らな境内だ。境内じたいが駐車場にもなっている。楠の巨樹がアクセントを添えている。


  9時半発。製麺所がうどん屋もやっていて、「全国発送承ります」とある。有名な店なんだろう。川沿いを上流に向けて歩く。途中、何度か旧道にはいる。祠や地蔵が多い。遍路道を歩いていて、ほっとするのが、街角や田んぼの端などにあるお地蔵さんだ。花がいけてあり、前掛けや帽子をかぶっている。地主が共同で建てたという巨大なお地蔵さんがあった。
 お地蔵さんを大切にする、ということは、地域の結の力が残っているということだ。〓とげ抜き地蔵と同じ方向性の豊かさがあるのかもしれない。


 10時50分、前山ダム着。ダムのすぐ下にも畑があり、家がある。ダムが決壊したら一巻の終わりだ。恐くないのかなあ、と思うが、よく考えたら東京や大阪はダム(ビル)だらけだ。倒壊したら何百人何千人単位で死ぬ。文明のもろさを思う。

 ダムから500メートル歩けば遍路ステーション?のある道の駅がある。そこまでいかずダムを渡れば「健脚向け」の四国の道だ。「絶景です」と書いてある。そこまで言われたら後者を選ぶしかない。
 湖の、自動車道とは反対側を上流にむかって歩く。沿道には地蔵がたくさん安置されている。ダム建設で中津という集落が水没した。宿場町のような雰囲気だったという。
 ダムの最上流は、大きなゴミや岩が流入しないよう、コンクリートのゲートのようなものが流れを狭めている。その上流は渓流だ。
 林道のような道をのぼる。渓流沿いに木造平屋建ての建物に「木村よしお 自民党」というポスターがある。正面にまわると、譲波?(ゆずりは)の公民館だった。その前はベンチがあり休憩所になっている。こんな人っ子一人いない山奥に公民館って……。
 ちょっとのぼると、家が数軒ある。犬が吠えている。だがその家のなかはがらくたやゴミが山積みだ。畑を囲んでいる、猪や鹿よけ?のネットやトタン板も壊れている。

  「電気が流れます 注意」?という柵に囲まれた畑もある。畑を守ろうと格闘したが、ついに人間が敗れて撤退し、無人の山にもどろうとしているのだ。
 ずいぶん登ってきたのに、耕したばかりの棚田がある。こんな上でも、今も米を作っているのだろうか? もちろんネットやトタンで囲まれている。別荘風の建物の廃墟もある。いったいどんな人がここに住んでいたのか。
 急坂だ。ホオバの大きな落ち葉が足下を埋めている。看板によると、ホオバは日本原産だそうだ。包む葉、という意味からきている? 食器がわりにも使われたという。

  急坂を杖をたよりにのぼりきった、と思ったら、目の前は下り坂だ。地図で確認すると、このあたりは標高500メートル。いったん林道まで下って、700メートル以上までのぼり返さなければならない。
 林道にでたところが太郎兵衛館。とくに何があるわけじゃない。大窪寺まであと2.6キロ。ずいぶん近くなってきたが、まだまだ本格的な登りはこれからだ。
 また急坂の遍路道にはいる。頂上へ1196メートル?という看板。もう一度林道にでてまた遍路道にはいるところは「900メートル」。「岩をはい上がる箇所などがあるから、心配な人は林道を……」とある。上を見ると、谷沿いにのぼる登山道は雪で真っ白だ。
 日陰は雪が5,6センチも積もっているが、稜線にでると木漏れ日があたたかく、雪はない。ココココと木の幹をたたくキツツキの姿も見えた。はるか下に高松の街と瀬戸内海が望める。こっちの道を選んでよかったぁ。海が見える、というのがいい。
 山頂まであと100メートルか200メートルというところに休憩用のベンチがある。なぜ? すぐに理由はわかった。ここからが岩のよじのぼりなのだ。雪があって杖がじゃまになり、手袋をしてなかったことをちょっと後悔したが、斜面じたいはたいしたことない。下りは恐いだろうけど。真っ白な岩場は爽快だ。


  13時40分、女体山に到着。頂上には東屋がありゆっくり休める。瀬戸内側の景色はすばらしい。標高774あるいは776メートル。たぶん、焼山寺よりも高いだろう。

 南側へくだる道は雪が少ない。傾斜もゆるやかで、思ったより足が痛くならない。14時50分、山道からいきなり境内に降り立った。
 本堂は岩峯を借景にしていて美しい。納経所の隣には、奉納された金剛杖がならんでいる。大師堂にいく途中には、杖のオブジェがついたガラスの建物があり、そのなかには数千本か数万本の金剛杖が収納してある。その目の前には「原爆の火」が燃え続けている。
 結願の寺であることがよくわかる。最後にこの寺に来る人は感慨ひとしおだろう。

 門前の土産物屋の親父によびとめられ、生姜湯と黒砂糖の菓子をお接待される。納め札をわたす。「わしも若いころは集団就職で港区で働いてたんよ」。納め札を渡すことが重要であることが、おじさんの表情からよくわかる。単なる慈善ではない、互酬のシステムと言うのだろうか。お接待する側は納め札がほしいのだ。地域通貨とのつながりは?
 「昔は宿も店もなかった。今は楽になった。でもまた、遍路道周辺から家がどんどんなくなってくる。これからまた大変になるかもしれん」
 民宿・八十窪は、きれいな建物だ。民宿なのに部屋のなかにトイレもある。平成7年1月、震災の2週間ほど前に完成したという。
 客は僕一人。夕食は、赤飯もある。色鮮やかな煮物、あたたかいソーメン、鯖の酢の物、鯛の刺身……どれもおいしい。缶ビールとワンカップ1杯をのみ、夜の作業用に缶ビール1本を追加した。

□おばちゃんの話

 昔は寺に宿坊があったがそれが廃止になり、「お宅がやってくれ」と言われて昭和49か50年にはじめた。最初は大部屋形式だったが、建て替えた。
 おばちゃんは76歳。というと、昭和7年ごろの生まれか。元気だからそんな歳には見えない。今まで19回、遍路をまわった。お大師さんが21日間〓して死んだときいて、死ぬまでに21回まわろうと思っている。現在自分で車を運転して20回目をまわっている。
 最初の1回は昭和22,3年ごろの娘時分だった。長女で体が弱かったから、「元気に育ってくれたらお四国をまわらせます」と親が願をかけた。それで嫁入り前に「まわるまで帰ってくるな」とだされた。米3升をもたされ服にカネをぬいつけてもらった。お四国を回ったことがある近所のおばさん2人がいくというから、彼女らと出発した。前半の半分をまわったところで、おばさんは体調を壊して帰るという。「あんたも一緒に帰ろう」と言われたが、「全部まわるまで帰ってくるな」と言われているから一人で歩くことに。それからが大変だった。親に棄てられたと思ったから必ず生きて帰ってやる、と思った。
 米3升などすぐなくなってしまう。野宿をして、川で体を洗って、洗った衣類を干しながら歩いた。托鉢をしてもお金をもらえればよいほう。お年寄りだと隠していた米をくれることがあり、それがうれしかった。米があれば宿に泊まれた。畑の野菜やら果物やら、あるものはなんでも食べた。泊まるのは野宿ばかり。乞食遍路とまちがわれて、子供に棒でなぐられたり、追いかけられたりすることもあった。
 今とちがって地図もないし、案内板もなにもない。迷いながら歩くしかない。だから3カ月かかった。
 
 遍路がブームになったのは昭和40年代に入ってから。伊予鉄バスと瀬戸内バスしかこなかった。その後、徳島の○○バスが来るようになり、最近は全国各地のバス会社が来る。
 子供のころは、遍路なんて乞食遍路くらいだった。しょっちゅうそこらで死んだ。自分たちの地域で死んだら、弔って埋めてやらないといけない。貧しいときなのに、かなりのカネがかかる。だから、隣の部落まで死にそうな遍路の荷物をもってつれていくこともあった。「隣までつれていくから、握り飯3個もたせてくれ」と父が言うのを覚えている。
 遍路は火葬にはしなかった。あとで調べることがあるからだ。すべて土葬だ。
 寺も今のように立派じゃない。ここの寺でも本堂があって、大師堂は別のところにあった。ほかの施設なんてなかった。その他の札所もボロ寺だった。今はどこも立派になった。そういうのを見ると、いかに遍路が盛んになったかがわかる。
 父は戦争にいって死んだ。母は毎日のようにお寺に参り、わたしも家で一人では恐いからそれについていった。だから般若心経はそらんじることができた。

 体重 26日夕=72.8キロ 27日夕=73.4キロ 28日夕=71.5キロ。汗かいたからか、体重計の誤差なのか。

■1090128  缶ビール2本とワンカップ1本を入れて、7400円。入れなければ2食つきで6500円。

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