西国三十三所には清水寺がふたつある。有名な京都の清水寺(16番)と、兵庫県加東市にある25番の清水寺だ。「もうひとつの清水寺」を訪ねるため里山に囲まれたJR福知山線の相野駅に降りた。5月末、黄金色の麦畑が風で波打っている。寺までは10キロほどらしい。
近くのコンビニでお茶とミニアンパンを買い、9時半に出発した。
自然木と巨石、鯨の骨の鳥居
名物の黒豆や丹波焼の看板を横目に30分ほどで山に入る。県道の峠を越えると丹波篠山市だ。田植えを終えたばかりの水田は電気柵に囲まれている。
東条川のダム湖を渡るとき、両岸から伸びた道が途中で水没してとぎれていた。大川瀬ダムは1991年竣工だから30年以上もこのままなのだろうか。
11時、左折してお椀を伏せた形の山へと向かう。
右手の田んぼにこんもりした鎮守の森がある。徒歩旅行は寄り道が醍醐味だけど、長距離を歩くときは回り道は負担になる。でもこの鎮守の森にはひかれた。木津住吉神社という。
参道の鳥居の前には巨石がふたつ。さらに神社の森の鳥居の前に自然の木が2本立っている。巨石も木柱も鳥居の役割を果たしている。古い信仰の痕跡だろうか。
風変わりの鳥居で、和歌山県太地町の恵比寿神社を思いだした。。ここの鳥居は鯨の骨製で、「鯨骨鳥居」と呼ばれる。井原西鶴の「日本永代蔵」に、鯨の骨で出来た泰地(太地)の鳥居が登場することから、太地魚商組合が1985年に再現した。96年に2代目に代替わりして、2019年には太地町漁協が3代目をたてた。長さ3.5メートルのイワシクジラのあご骨を使い、骨の周りをFRPで覆って強化したという。僕が見たのは2代目だった。
木津住吉神社境内には立派な舞堂がある。1961年までは毎年9月に田楽が奉納されていた。しばらく中断していたが1971年に保存会が結成されて復活したという。
大正・昭和も伝説や信仰の対象に
山峡の田んぼには、ウグイスやツバメの子が飛び交い、シロツメクサの白い花が咲き乱れている。そんななかを15分歩いて山のふもとに近づくと、ジャズを流すおしゃれな古民家食堂があった。
「清水寺登山口」から寺までは約2キロ。車の参拝客は拝観料500円を取るが、登山道を歩く参拝者は無料だ。
つづら折りの山道には「十七丁」から「一丁」までの丁石がある。45分ほどで寺の下の石段にたどりつき、それを登りきると、城郭のような石垣と白壁があらわれた。「清水」の名は裏山にある井戸に由来するらしい。
大講堂も根本中堂も1913(大正2)年に焼失し、17年に再建されている。新しいけれど、十一面観音の表情は穏やかで神々しい。薬師堂はさらに新しいが、壁面に飾られている十二神将像が、十二支の動物をかたどっていて楽しい。
「大塔跡」には36の巨大な礎石が残っている。昔は大きな塔だったんだろうなぁと想像する。だが案内板よると、1907(明治40)年に焼失して1923年に再建され、1965(昭和40)年の台風で大きな被害を受け撤去されたという。大昔の遺跡だと思ったら、つい最近のできごとだった。
大正・昭和でもすでに「歴史」であり、信仰や伝説の対象になっているのだ。
若葉の森にたたずむ丸ポスト
大講堂の下の森のなかに黒ずんだ丸い郵便ポストが立っている。
「引退ポスト」とSNSで話題になったらしい。
1955年までは寺の20メートル下の山道沿いにあり、郵便局員が2日に1回、45分かけてふもとから郵便物の回収に来ていた。その後使われなくなって、倒れて放置されていた。
1998に住職が森のなかに立てたら、新緑や紅葉の山に映えるレトロポストとして人気が出た。
これもまた新たな伝説だ。伝説や信仰って、ツボを押さえればけっこう簡単にできあがるようだ。
帰途はバスに乗る選択肢もあったが、往路を2時間半かけて歩き、最後は走って16時発の電車に飛び乗った。
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