琵琶湖源流「地図から消えた村」巡り
2022年4月29日 15:55
琵琶湖の北端に近い長浜市に流れ込む高時川の源流・奥丹生谷にはかつて7つのムラがあった。丹生ダム建設予定地となり1995年までにすべて廃村になったが、2006年にダム計画の見直しを訴えた嘉田由紀子氏が知事になり、2014年に建設中止が決まった。7つのムラを半世紀にわたって記録してきた吉田一郎さんが現地を案内するツアーに参加した。
炭焼きと豪雪のムラ、集団離村
琵琶湖の北の余呉湖(標高133メートル)は小さな湖だが、標高84メートルの琵琶湖の水をポンプアップして貯め、周辺の農村に分配する貯水池の役割を果たしている。
余呉湖から北に向かう高時川沿いの県道を北へたどる。福井県と岐阜県の県境に近い山地は全国でも指折りの豪雪地帯だ。
7集落は炭焼きを生業としてきたが、エネルギー革命にともなって山奥の奥川並、針川、尾羽梨の3集落は1969から71年にかけて集団離村した。
長浜市職員だった吉田さんはダムで沈むムラを記録しようと思い立って1970年から通いはじめた。どの集落も茅葺きの民家がならんでいたが、6.5メートルの積雪を記録した1981(昭和56)年の「五六豪雪」で一気にトタン屋根にかわった。吉田さんが豪雪で孤立した小原と田戸を尋ねると、住民たちは雪に埋まった民家の2階から出入りしていた。奥丹生谷では最後まで土葬がつづいていた。
1995年、4集落は「離村式」を開いて集団離村した。
共同井戸と五右衛門風呂はNHK
ツアーは最初にダム建設予定地の小原という集落を訪れた。ダムができれば堰堤の土の下に埋まることになっていた。
川沿いに児童公園ほどの広場がある。その一角に石垣で囲われたショウズ(清水)と呼ばれるわき水の井戸がある。斜面からわき出る水は上中下の3つの槽に順に流れ込む。一番上は飲み水、、一番下は汚れ物を洗った。小原はこの共同井戸を中心に形成された。
「女の人が鍋を洗いに集まって、食事もして、井戸端会議で悪い話もいい話もここから伝わる。小原のNHKだったんだ」
太々野功さん(昭和10年生まれ)が説明する。
昭和30年代に町の補助で山から水を引いて4メートル角のコンクリート水槽に貯めるようになって防災用水を兼ねたが、ショウズは最後まで集落の中心だった。人々にとって重要な場所だから、石垣に座ると怒られたという。
富山県黒部市の生地地区のショウズ(清水)を思い出した。北洋漁業で栄えた漁師町には約20カ所のわき水がわき、人々の井戸端会議の場になっていた。
小原には9軒の家があり、それぞれの家に五右衛門風呂があったが、わかした家にみんなが「もらい湯」をしに集まった。風呂釜に座ると湯は腰までしかないため「タマ風呂(金玉風呂)」と呼んでいた。風呂の周囲や天井を囲って蒸し風呂のようにしていた。
「風呂をもらって、バイとかクルミとかをお茶請けにしておしゃべりしました。風呂も小原のNHKでした」
夏場は湯は沸かさず、たらいで水を浴びた。
800種の薬草、治らない伝染病は神頼み
昔は真冬は雪で閉ざされ、医者に診てもらうこともできない。戦前この地を訪れた宮本常一は、冬場に人が亡くなると雪に遺体を埋め、雪が溶けてから検死をしたと記している。
医者にかかれないから800種類近い山野草を薬に使ってきた。
太々野さんは無造作に周囲の雑草を摘んだ。
「スギナは血圧の薬、ドクダミは血管を強くする。カキドオシは血糖値を下げる。乾燥させてお茶がわりにするとよく効くんです。インシュリンと併用して血糖値が下がったら、インシュリンを減らしていけばいい」
キハダは、外皮をはいで内側の皮を粉末にする。黄色い粉末は胃腸の調子が悪いときに耳かき1杯飲む。酢でこねると打撲にも効く。風邪をひいたら湯をわかして部屋の湿度を高めた。
伝染病も自分たちで対応するしかない。赤痢になると着物を釜でゆでて消毒した。コレラ患者の服は焼却した。集落内に患者を隔離する家もあった。患者の遺体を焼く場所は役場から指定された。昭和30年代には3年つづけて伝染病で5人ずつ死んだこともあった。
「薬では治らないと神頼みです。はしかは赤い御幣で赤飯を供えました。疱瘡は白い御幣を供えました」
世界遺産の棚田群で知られるフィリピン・イフガオ州の先住民族のムラを思いだした。2015年に取材した。
農耕儀礼などをつかさどる長老が代々、薬草の知識を伝えてきたが継承が難しくなりつつあった。24歳の女性が、40人の高齢者に聴き取りして40種の薬草を収集し、効能を記録していた。そしてこう言った。
「写真と文書にまとめれば若い世代も薬草を活用できる。成分を分析して薬効を証明し、塗り薬やシロップを商品化したい」
太々野さんは、イタヤカエデの薄い板を編んでつくる「小原かご」の制作者でもある。頑丈で大人が上に乗っても壊れないから脚立がわりにもなる。
私たちが山の斜面にある春日神社跡に残る石垣や「疱瘡の神」がまつられていた大杉の洞を見学する20分ほどの間に、籠を作るようにシャガの葉を編んで敷物をつくってしまった。
未練を残さぬよう、石垣も建物も破壊
数百メートル上流の田戸集落には、焼畑をした急斜面がある。「共有林を植林したら自分の持山にできる」と決めて競って植林したから、不便でも離村する家が少なかったという。
車で数分さかのぼると「鷲見」集落だ。
高時川の支流沿いに14軒の茅葺き民家がならび、それぞれの家の前に谷川に下る石段が設けられていた。今も、川の石垣や橋の欄干の一部が残っている。
集落跡の隣の小山には八幡神社の石垣がわずかに残っているが、本殿跡の石段などは崩れ、社殿のあった場所もわからない。嘉田さんが説明した。
「昔は建物ごとダム湖に沈ませることもあったが、住民の未練が残った。だから建設省は、ダム建設現場では石垣ひとつ残すな、という方針を決めて徹底的に破壊していました」
タイルの床に埋め込まれた五右衛門風呂
さらに車で10分ほどさかのぼった針川集落は1970年に14戸が集団離村した。石垣さえも残っていない。雪椿がところどころに赤い花をつけている。
だが奥の森のなかに五右衛門風呂がころがっていた。さらに、タイルの床にはめ込まれた風呂釜があり、隣にプロパンガスのボンベがあった。こんな五右衛門風呂を見るのははじめてだった。
ダム計画がなくなった7つのムラは、エコミュージアムとして活用する計画があるという。
「地図から消えた村 琵琶湖源流7集落の記憶と記録」(写真と文・吉田一郎、サンライズ出版)は3500円。
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