首里城は2019年10月の火災で正殿や北殿など9施設が全焼した。その後、どうなっているのだろう。
戦争を生き抜いた石畳
那覇市中心部から徒歩1時間、「金城町石畳道」の坂を歩いた。首里城から国場川の真玉橋までの官道だった「真珠道」の一部で、沖縄戦で大半が破壊されたが金城町の238メートルだけ残った。
あちこちに花が咲き、「石敢當」も古い道で見るとしっくりくる。
完成して7カ月後に焼失
「首里そば」のこしのあるそば食べてから首里城にのぼった。漆塗りの正殿は観光客が長い行列をつくり、王朝時代を再現したジオラマなどを展示していた。
それらがすべて消えた。
首里城は沖縄戦で壊滅し、戦後は琉球大学のキャンパスになっていた。大学移転後の1989年から3年かけて正殿が建てられ、2019年2月に国王の生活空間である御内原が完成して、1992年の開園から27年かけて王朝時代の姿がよみがえったばかりだった。
焼け跡に、おそらく琉球王朝時代からの礎石があらわになっている。朱塗りの建物が消えたことで壮大な石垣が逆に存在感を強めている。
でもよく見ると、古い石垣は一部で、あとは機械で切断された石だ。8年前は朱塗りの建物群に目を奪われて気づかなかった。
首里城は沖縄を統括する第32軍の司令部があり、縦横に地下壕が張り巡らされていた。司令部があったから首里城は石垣も破壊しつくされた。
王家の墓は倉庫に
首里城の丘の西側の斜面には王家の墓である「玉陵」がある。
1501年に建てられ、第2尚氏王統の陵墓となった。
城のように石灰岩の石垣に囲まれ、門をくぐると庭には珊瑚の砂利が敷きつめられている。東室、中室、西室の3つを組み合わせた石造りの建物は、マヤ文明の神殿に似ている。王朝の強大な権力を示している。
中室に遺体をおさめた柩が安置され、洗骨後に遺骨が厨子におさめられ、王と王妃のものは東室に、それ以外の家族は西室にまつられた。沖縄は1955年ごろまでは風葬だったが、戦後、火葬が普及して洗骨がなくなると、厨子は小型化していったという。
エジプトの王家の谷のような神聖な場であった玉陵も、戦時中は軍隊の倉庫となり、米軍の砲撃で破壊された。1974年から3年かけて修復された。
最大の激戦地、前田高地
首里城から北を見ると、隣の浦添市や宜野湾市にいたるまで家並みが途切れることなく広がっている。那覇の人口は32万人だが、中低層の建物が多いから東南アジアの街のように広がっているのだ。
首里城の北4キロの標高130メートルほどの丘陵には浦添城という城があった。頂上のちょっと下の斜面の岩壁に「浦添ようどれ」と呼ばれる王朝初期の墓がある。「ようどれ」とは夕凪の意味だ。二重の石垣に囲まれた岩の斜面を掘った部屋に王族の骨をおさめた厨子がおさめられていた。首里の玉陵はマヤのピラミッドのような石造りの建物だが、ここは時代が古いから斜面に横穴を掘ってつくっている。13世紀の英祖王が築き、1620年に尚寧王が改修したとされている。
この「ようどれ」も戦争で徹底的に破壊された。
浦添城のある丘陵は「前田高地」と呼ばれ、日本軍が陣地を築いていた。北側にある読谷や北谷の海岸に上陸した米軍が攻め寄せた。首里の司令部を守る最後の高地だから未曾有の激戦が繰り広げられ、城跡は破壊しつくされた。
さらに戦後、崩れた浦添城の石垣の石材は採石業者が持ち去ってしまった。
「ディーグガマ」は鍾乳洞が陥没してできた御嶽で、戦後はそのなかにコンクリートブロックの囲いをつくり、戦没者の遺骨をおさめていた。その後遺骨は摩文仁に移された。
「ようどれ」の墓室は戦後、琉球政府によって修復された。周囲の石垣は1996年から発掘調査され、2005年に復元された。
復元された石垣の上に立って王朝時代の墓を想像していたら、真上をオスプレイが轟音を立てて飛び去った。2キロ北東の米軍・普天間基地から飛び立ったものだ。
首里城も浦添城もほかの多くの城も1990年代から2000年にかけて復旧されている。「戦後」は21世紀までつづいているのだ。
文化財は心のよりどころ
新しい城をつくっても文化財といえるのだろうか?
僕は疑問に思っていた。形だけ再建したコンクリート建築の大坂城の印象が強すぎたのかもしれない。だがこうして復活したグスクの石垣を見ると、遺跡は住民の心のよりどころなのだとわかる。殺風景な荒れ地ではそうはならない。1992年に完成した首里城正殿は首里の人たちにとって「戦後」の克服を象徴していたのかもしれない。
オスプレイの普天間基地「軍隊は住民を守るのか」
米軍が攻め寄せた前田高地の北側斜面を下り、「普天満参詣道」の「当山の石畳道」をたどる。毎年国王がこの道を通って普天満宮を参拝していた。幅3メートル、延長200メートルほど石畳が残っている。
1キロ北東の嘉数台という丘陵の頂上には展望台があり、普天間基地の2800メートル滑走路と、基地周辺に密集する住宅街が一望できる。2004年に沖縄国際大にヘリが墜落し、2017年には普天間第2小学校にヘリの窓が落下した。基地と住宅地が隣接する危険がよくわかる。滑走路には十数機のオスプレイがならんでいる。
平和学習の高校生の集団がのぼってきた。
「ここから見える海が真っ黒になるほど軍艦が来たんです。日本の戦艦だと思ったら1500隻のアメリカ軍でした」
ガイドの男性が説明する。
艦砲射撃が数日つづいたあと、1945年4月1日に上陸を開始する。
嘉数台も日本軍の陣地が構築されていた。今も塹壕やトーチカが残っている。
米軍は54万人で、うち18万人が上陸した。沖縄本島にいる日本軍は9万人で、装備も貧弱で結果は見え見えだったのに、本土決戦を遅らせるための「捨て石」とされて降伏を許されなかった。その結果、軍人以上に民間人が殺された。
ガイドの男性が語った。
「強い軍隊がいれば守ってくれるというのはちがいました。軍隊のあるところに攻撃が集中して住民が殺されていったんです。そのことを覚えておいてほしい。ウクライナのことも同じように考えています」
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