墓地に立つ観音バスのバス停
西国三十三所の27番圓教寺は姫路市の郊外にあり「西の比叡山」と呼ばれている。
青春18切符が余ったから訪ねることにした。
約20年ぶりに姫路駅に降りると、目の前に姫路城がそびえている。白鷺城と呼ばれるだけあって美しい。
姫路城から北へ7キロ、書写という風変わりな名前のバス停で降り、動物除けのネットをくぐって山際の墓地に入ると、片隅に「バス停」がある。
「観音バスへようこそ。このバス停はお遊びです。いつまで待ってもバスは来ません」
墓地を脱けて書写山(371メートル)の登山道「東坂」を登る。岩肌が露出した尾根は「鰐の背」。ところどころ露出した岩壁から瀬戸内の島々が望める。岩の多さが、修験道の聖地だったことを示している。
40分でロープウェイの頂上駅、さらに10分で仁王門をくぐった。
山中にいくつものお堂が点在する。最盛期は、平らなところはほとんど塔頭で占められ、千人規模の修行僧を抱えていたという。今も6つの塔頭が残っている。
秀吉への恨みを今もあらわす宝物館
清水寺のような舞台造りの摩尼殿は迫力がある。1921年に焼失し、1938年に再建された。
さらに5分ほど歩くと、本堂にあたる大講堂(下層は1440年、上層は1462年)と、食堂(1461〜)、常行堂(1453年)がコの字型にならび、「三之堂」(みつのどう)を形成している。室町時代の建物はいずれも国の重要文化財だ。
修行僧の寝食のための食堂は2階が宝物館になっている。
性空上人が966年に創建した寺だが、それ以前の奈良時代の土師器や須恵器、陶硯類が出土している。スサノオノミコトが山頂に降りて1泊したという伝説もあり、寺ができる以前からなんらかの宗教の拠点だったことを示している。。
書写塗という漆器は、秀吉の根来寺(和歌山)焼き討ちから逃れた僧侶がつくった。
圓教寺自身にとっても秀吉は不倶戴天の敵だ。
1578年、三木城の別所長治が反乱を起こし、姫路城にいた秀吉は、別所と毛利に挟まれて窮地に陥り、黒田官兵衛の進言で、見晴らしがよく兵糧調達に都合がよい書写山に本陣を置いた。僧侶を追い出し、2万7000石の寺領を没収した。展示は秀吉への恨みをよく表現している。
「旧大日堂仏像群」は独特の存在感がある。10世紀から11世紀につくられた木造の仏像で、廃仏毀釈の際、旧細田村が保管して守られた。昭和30年代に大日堂の維持が困難になって公民館に移され、2006年に圓教寺に移された。今も所有者は「夢前町細田自治会」という。
弁慶が大暴れして全山焼失
大講堂と食堂の間には弁慶が顔を洗ったという「弁慶の鏡井戸」がある。弁慶はこの寺で7歳から10年間修行したと伝えられる。
昼寝中に顔に落書きをされた弁慶が、鏡井戸に映った自分の顔を見て激怒し、兄弟子たちを大講堂の屋根に放り投げ、大げんかになり、火災が起きて大講堂をはじめ全山が焼き尽くされた。その再建資金を集めようと太刀を奪って歩くなかで牛若丸と出会った、とされているらしい。
さらに奥には奥の院と性空上人をまつる開山堂がある。1007年に創建されたが焼失し、1671年に建て替えられた。目の前の護法堂拝殿は「弁慶の学問所」だそうだ。
飾り物になった「力石」
帰りは簡易舗装された「西坂」を下る。30分で下りきった日吉神社には「力石」があった。昭和30年代まではこれで力比べをしたのだろう。今は持ち上げられる人がいなくなったためか、注連縄をつけられて飾り物になってしまった。
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