標高400メートルの山の寺
西国三十三所の札所は基本的に山の上にある。
仏教以前の山岳宗教の場がそのまま札所に転じたからだ。景色のよい場所が多いから正月の肥満を解消するハイキングにもぴったりだ。
今回は安土城跡のわきにある32番・観音正寺を訪ねた。
午前11時、安土駅の観光案内所に立ち寄ると、「桑実寺からの登山道が近いけど、雪が残っているから2,3日前に登った人はアイゼンを持ってましたよ」と言われた。遠回りだけど林道を歩くことにした。
田んぼの道をたどり目の前の繖(きぬがさ)山(433メートル)へ。40分ほどで林道のゲートをくぐった。冬は車は通行できない。30分ほどで参道の石段と合流し、さらに10分、石段を汗をかきながら登りつめると、雪が残る境内に着いた。冷たく透き通った空気が心地よい。近江富士や湖南の平野が一望できる。琵琶湖の水運と平野の実りが近江の経済をつくりあげたことがよくわかる。
「奇跡」を起こした巡礼
縁結びの地蔵堂の隣に、四国遍路と西国三十三所を38回まわった山口県の人の碑があり、白衣と数珠が奉納されている。原爆救護隊として広島で活動した経験をもち、子どもができない娘の「子授かり」を祈願して巡礼すると孫が生まれた。ところが今度は妻が重い心臓病になった。ふたたび西国と四国を巡ると快癒した。巡礼が奇跡を起こしたという。
私にとって四国88ヵ寺を40日かけて歩いた経験は大きな意味をもったけれど、奇跡は起きなかった。
カトリックの「聖者」になるには奇跡を起こしたことが認められる必要がある。2代前のローマ法皇ヨハネ・パウロ2世は2つの奇跡が認定されて聖者となった。パーキンソン病だった修道女がヨハネ・パウロ2世の死後に祈りを捧げると病気が快方に向かったことが「奇跡」のひとつとされた。
え、それが奇跡なの?
もしかしたら奇跡はしばしば起きていて、凡人が気づいていないだけなのかもしれない。
ミイラも本尊も焼けた
本堂の飴色の千手観音の坐像は高さ6.3メートルもある。お香のようなにおいが漂う。
西国三十三所の本尊は秘仏が多い。観音正寺もかつては33年に1度だけ開帳されていた。1人の観音様が1年ごとに33の札所をまわるから、拝めるのは33年に一度なのだと聞いたことがある。
「こちらのご本尊は秘仏なんですよね?」と納経所で尋ねると、
「あの千手観音さんが本尊ですよ」
観音正寺は人魚のミイラがあることで有名だった。1993年の火災で本堂が焼け、人魚のミイラも、国指定重要文化財の秘仏、千手観音も焼失したという。
インドの白檀23トンでつくられた千手観音
秘仏ではなく、だれにも拝んでもらえる本尊を白檀でつくろうと考えたが、インドの白檀は輸出が禁じられている。
寺の住職らがインドに通い、現地のヒンズー教やシーク教の関係者らの協力を得て、インド政府から特別に輸出が認められた。白檀の原木23トンを寄せ木づくりにして、高さ6.3メートルの千手観音坐像を彫りあげ、2004年に本堂とともに完成した。当初は明るい白木の色だったが、今は飴色になってきた。
2012年には、旧本尊の 「御前立」 (写し本尊)が発見された。傷みが激しかったため、京都の仏具店にあずけられていたのだ。修繕したうえで、2022年4月に寺にもどされ、33年に一度拝める「秘仏」になることが決まっている。
「白檀の本尊はインドに30回も通って実現しました。あきらめず念じつづければ奇跡はおきるのですね」と納経所の男性は語った。
「奇跡」は現実の半歩先にあるようだ。
先駆的石垣を築いた巨大な山城
本堂の裏からちょっと登った山頂はかつて観音寺城の中心だった。
石垣と水をたたえる井戸も残っている。近江守護の佐々木六角氏の本城だったが、1568年に織田信長に攻められて城を捨てた。さらに本能寺の変のあと、安土城といっしょに滅亡した。
最盛期は1000におよぶ曲輪があり、全国でも随一の規模の山城だった。当時の城郭は土で切り盛りし、石積みは曲輪が崩れないように土をとめるための高さ1m程度のものだったが、観音寺城は、本丸などに高さ3~5mもある石垣を積んだ。安土城の50年も前に最先端技術の石垣を駆使した城だった。
養蚕発祥の寺
城跡のある頂上からは、雪の残る山道を下る。30分ほどで桑実(くわのみ)寺の境内に入った。本堂は重要文化財だ。
天智天皇の勅願で、藤原鎌足の長男、定恵が677年に創建したと伝えられている。定恵が唐から持ち帰った桑の実をここで栽培し、日本で最初に養蚕をはじめたから桑実寺と名づけられたという。養蚕技術を伝えた渡来人と関係が深い寺なのだろう。
安土城に見る信長の先見性
寺から長い石段を下り、県立安土城考古博物館を見学したあと、安土城跡に向かう。
安土城は、石垣を本格的に導入したはじめての城だとされる。観音寺城を参考にしたのだろう。
天守跡にのぼる途中の石段沿いには秀吉ら家臣の屋敷跡がある。石垣が幾重にも積み重ねられた壮大な城の風景が想像できる。
琵琶湖を望む天守閣は完成3年後、本能寺で信長が討たれて焼失した。秀吉のおいの秀次が近江八幡に八幡山城を築城したため廃城になった。
しばらくは荒れたままだったが、1940年に土を取りのぞくと礎石が昔のままあらわれた。整然とならぶ礎石と、天守閣の土台となった石垣は今も見ることができる。
水運と陸運の拠点であり、水が豊富で米がよくできる。政治経済の中心にふさわしい場所だったのだ。(202201)
コメント