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商人の里 近江八幡の中興の祖は青い目のクリスチャン

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きれいになった中心街

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   JR近江八幡駅を降り、駅前通りを八幡山に向かって歩く。30年前に来た時はちょっとすさんだ町というイメージだったが、彫刻などの作品が点在し通りはきれいに整えられている。
 市役所の近くに朝日新聞の支局があった。朝日新聞は地方の人員を徹底的に削っているため、この支局も無人だ。まもなく正式に廃止されるだろう。
 駅から30分ほどの八幡山のふもとには碁盤の目の街並みが広がっている。新町通り周辺は、土蔵をそなえた昔ながらの商家建築がならび、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 郷土資料館と歴史民俗資料館を併設する施設に入ってみた。

楽市楽座から発展、上下水道も整備した

 織田信長はここから5キロ東の安土に城を築き、城下町を楽市楽座にすることで商人を集めた。本能寺の変(1582年)で安土が破壊されると、豊臣秀吉は安土を復興するのではなく、甥の秀次に八幡山で城を築かせた。碁盤の目の城下町をつくり、安土にいた商人たちを住まわせた。
 秀次は1590年に尾張国清洲城に移り、京極高次が入ったが、1595年の秀次切腹とともに八幡山城は廃城となった。八幡は安土の楽市楽座を引き継いだため商業が盛んになり城がなくなったあとは町人の町として栄えることになった。
 前回見た五個荘や日野と異なって、同じ近江商人でも「楽市楽座」という出自があきらかだ。早い時代から活躍し、江戸の日本橋に出店を設けた。

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 八幡商人は畳表や蚊帳を中心に商った。展示されている蚊帳は繊細なデザインで美しい。各地で人気を博したらしい。最先端の工業製品のひとつだったのだ。
 近江商人は、信用できる地元の子を12歳前後で入店させ、5年ほど出店で働かせる。5年後に50日ほど休暇を与えて帰省させ、その時に昇進させる。帰省のたびごとに昇進させる制度を「在所登り制度」と呼んだ。
 八幡の町では、井戸の水が出ない個所には「古式水道」を設けた。元の井戸から竹筒で各家の貯水タンクである「取り井戸」に水を導く。「駒」「枕」と呼ばれる松の木でつくったジョイントがあり、分岐には樽が置かれた。「背割り排水」という下水も整備された。すべて町人の力によるものだった。
 八幡は江戸時代から太鼓の皮ばりが盛んで、蒲生郡林村がその拠点だった。40年前まで太鼓の職人がいた。明治になるとそれが靴産業になった。現在もオダーメードの靴を製造しているという。

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 八幡山のふもとには「八幡堀」がある。石垣や橋が独特の景観を形成し、水郷巡りの観光船が行き交っている。

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神の国をめざした近江兄弟社

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 八幡の町でもうひとつ目立つのがヴォーリズの建築物だ。旧八幡郵便局やアンドリュース記念館、ヴォーリズ記念館……あちこちに彼の建物が点在している。

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  ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(日本名・一柳米来留)はキリスト教を伝道するため1905年に八幡町(近江八幡市)の、近江商人の「士官学校」と呼ばれた滋賀県商業学校(八幡商業高校)の英語講師になった。
 2年でくびになり、建築の仕事をはじめた。それが近江兄弟社に発展した。近江さんという兄弟がつくった会社だと思っていたが、「人間みな兄弟」というキリスト教の教えから名づけられたという。
 1920年ごろから米国のメンソレータムの輸入を手がけ、製造工場を設けた。メンソレータムによる莫大な利益で、結核患者のための「近江療養院」を開いたのが「ヴォーリズ記念病院」に発展した。貧しい共働き夫婦を助けるために「プレーグラウンド」という保育所(後の近江兄弟社幼稚園)を開いた。それが戦後、「学校法人近江兄弟社学園」に育った。1940年に開いた「近江兄弟社図書館」は1975年に市に移管され近江八幡市立図書館になった。
 近江兄弟社は、稼いだ金を社会貢献に使い「神の国」をつくることをめざす企業だった。
 近江兄弟社グループの最高意思決定機関である常任委員は2年ごとの社員の選挙で選ばれた。職階制度はなく、給与も基本的に一律だった。子どもの教育費用も住む家も会社が負担した。「人間みな平等、みな兄弟」を具現化する家族主義、平等主義にもとづく組織だった。

倒産乗り越え、今も信仰と社会貢献継承

 だがその平等主義が足かせになっていく。
 メンソレータムが好調すぎて営業努力を怠りはじめる。常任委員制度も、社員の人気取りをした人が選ばれるようになる。職階や賃金差がないことも、競争心をなえさせた。社会主義の経済破綻と同様の事態に陥った。
 会社が混乱し、メンソレータムの製造販売権をロート製薬に奪われて1974年に倒産した。
 その後、会社組織をあらためて経営再建にとりくみ、社員はピーク時の1/4の80人に減らした。ロート製薬との間に、兄弟社が類似商品を販売しても異議を申し立てない、という内容の和解をして「メンターム」の名で売りはじめた。「自転車部隊」による小売店訪問のセールスを強化した。その結果、5年ほどで黒字転換を果たした。
 今も兄弟社は「基本理念」に「商業と信仰の両立による社会奉仕の実践」を掲げる。熱心な信仰家だからこそ、資本主義というシステムのなかで能力を発揮してお金を稼ぎ、そのお金は社会のための奉仕に使う。それこそが「神の事業」だと考えている。
 近江商人は「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」と、社会貢献を大切にした。その思想の基盤には仏教への篤い信仰心があった。キリスト教という信仰を基盤に経済活動と社会貢献を展開するヴォーリズと近江兄弟社はまさに「青い目の近江商人」だったのだ。
 病院や学校、図書館、福祉施設を整えたヴォーリズは近江八幡の中興の祖のような存在だという。

長命寺のもとは磐座信仰?

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 西国三十三所の31番長命寺は7キロほど離れた琵琶湖岸にある。そこまで歩くことにした。
 八幡堀を郊外へとたどると田んぼやヨシの原っぱがあらわれる。柿の赤い実があちこちで揺れている。
「西の湖」に冷たい風が吹き抜け、ヨシの原っぱがざわざわと波打つ。西の湖のほとりの円山地区にも水郷巡りの船着き場がある。全国で最初に「重要文化的景観」に登録されたという。
10年以上前の冬、こたつを備えた舟で水郷を巡ったのを思いだす。
 水路沿いをたどり長命寺川を琵琶湖まで下ると長命寺港だ。

 西国三十三所巡りでは、30番札所宝厳寺のある竹生島から舟でここに上陸した。今は31番長命寺から32番観音正寺、それから竹生島に参る「逆打ち」の方が多いらしい。

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 808段とされる石段の参道を20分かけて登りきると山門に着いた。
 三重塔は1597年、護摩堂は1603年、本堂がもっとも古くて1524年に再建され、いずれも重要文化財だ。

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 ちょうど本堂内陣の特別拝観期間中だった。
 本尊は聖徳太子が刻んだとされる千手観音と十一面観音、聖観音だが、33年に1度しか拝むことはできない。十一面観音をまつる山の上の寺と、千手観音をまつる山の下の寺を今の場所に持ってきて、三尊一体にしたという歴史的背景があると五来重は推測している。
 内陣にずらりとならぶ仏像は、かつて山中にあった30の宿坊にまつられていた本尊だ。
 山寺には奥の院がある。それを見るとその寺の出自がわかると五来は書いていた。

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  ここの奥の院にあたるのは鳥居をくぐってちょっとのぼった太郎坊権現社だ。その裏にある巨大な磐座が、仏教以前からの聖地だったらしい。
 磐座からは琵琶湖が一望できる。円錐形の近江富士(三上山)や水田の景観もみずみずしい。せっかく長命寺に参ったなら、絶景の磐座を訪ねないのはもったいない。
 2時間近くかけて近江八幡駅にもどった。22キロ歩いた。

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