もろかった「最後の城」
函館でレンタカーを借りて西へ走った。海をへだてて函館山を見ると、函館は巨大な陸繋島であることがわかる。知内町の道の駅の展望台から青函トンネル入口をながめ、津軽半島を望む白神岬をへて松前の町に入った。
町役場の裏山が福山城(松前城)跡だ。
江戸末期、海防強化を幕府に命じられた松前藩が、拠点の「福山館」を拡張して築いた。1854年(安政元年)に完成した最後の日本式城郭だ。ロシア艦隊による海からの攻撃に対応するため、海側に7基の砲台場が設けられた。
ところが1868(明治元)年、土方歳三率いる旧幕府軍に北側の山から攻められてあえなく陥落した。山側はわずかに土塁があるだけで、砲台も堀もなかったからだ。
松前は江戸末期、十数軒の回船問屋が集まり約6000人が住んでいた。仙台より北ではもっともにぎやかな城下町だったという。だが幕末の戦争で街の3分の2が焼失した。城の裏には15の寺を集めた寺町があったが、大半の建物は焼け、いま残っているのは5寺だけだ。
三層の天守閣は奇跡的に残って国宝に指定されたが1949年の火災で焼けてしまった。
苔むした庭が美しい法幢寺(曹洞宗)は藩主の菩提所で、寺の奥には、歴代藩主の墓がならんでいる。
城跡は、春には250種1万本の桜が咲き乱れる。花や苔が織りなすみずみずしい落ち着きは、北海道というより京都や奈良の雰囲気に近い。
道南には12世紀ごろから和人が住みはじめた。源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の残党が来た記録もある。義経が大陸に渡りチンギスハンになったという伝説はそこから生まれている。その長い歴史が本州的な風土をつくりあげたのだろう。
新鋭戦艦の末路
松前からは断崖が連続する海沿いの国道を北上する。風力発電の風車が林立している。和人が蝦夷地で最初に拠点をもうけた上ノ国町をすぎてまもなく、鴎(かもめ)島に守られた江差の港と町が見えてきた。
島のわきには大きな帆船がある。榎本武揚が率いた旧幕府軍の戦艦「開陽丸」を実物大で復元したものだ。
オランダで建造され、1867年3月に江戸幕府にひきわたされた新鋭艦だが、翌68年11月、新政府側についた松前藩の江差を攻撃し、江差占領は成功したものの強風で座礁。救援におもむいた「神速丸」とともに沈没した。虎の子の戦艦を失った旧幕府軍は、土方歳三を中心に宮古湾(岩手県)に停泊中の最新鋭装甲艦「甲鉄」の奪取を試みるが失敗に終わり、圧倒的な戦力の新政府軍に敗れた。
近江や北陸の商人が活躍
海岸段丘上の「いにしえ街道」には土蔵や西洋風のレトロな建築が点在する。「横山家」は「街道」から海岸の国道までの細長い斜面の敷地に、母屋と4棟の土蔵がつらなっている。能登半島の輪島市門前町にある北前船主の屋敷「旧角海家住宅」に似ていると思ったら、横山家の初代宗右衛門は能登半島・珠洲の出身だった。
1769年、21歳のときに江差に来て、ニシン漁の網元や回船問屋で財を築いた。その子孫が250年間住みつづけ、ニシンそばの店も営んでいた。8代目当主が2018年に亡くなって以来、公開をやめている。
少し先の「旧中村家」は、宝暦年間(1751年~1763年)から海産物の仲買商を営んでいた近江商人が1889(明治22)年ごろ建てた。表から、主屋、2つの蔵、二階が突き出た「ハネダシ」と呼ばれる倉庫が蛇腹状に結合し。土台には福井から北前船で運ばれた笏谷(しゃくだに)石が積み重ねられている。
笏谷石も植物も広げたバラスト
船で運んで高く売れるものはたくさんあるのになぜ大量の石を運ぶのだろう?
実は笏谷石は船の安定をはかるバラストとして船底に積まれた。寄港地でそのほかの商品が積まれると、そのぶんの笏谷石を処分した。だから日本海側の各地の港町に、笏谷石の灯籠や積石、墓碑が見られるのだ。
北前船の寄港地だった島根県の美保関(松江市)には、雨にぬれると青くなる「青石畳通り」があるが、その石畳の一部にも笏谷石が使われていた。
船のバラストは植物の分布にも影響をあたえる。
北海道に分布するアッケシソウ(厚岸草)がなぜか愛媛県や岡山県の海岸に生えている。瀬戸内の塩などを北海道にはこぶ北前船がもどる際、バラストに種子が付着してもちこまれたと考えられてきた。ところが遺伝子を調べたところ、瀬戸内と北海道のアッケシソウではDNAの塩基配列が異なり、瀬戸内のアッケシソウは朝鮮半島のものと一致した。北前船ではなく、朝鮮半島との交易によってもたらされた可能性が高くなったという。
琉球とならぶ交易国家
北海道では米はとれず、松前藩は藩士の給料を米で支給できなかった。だから、海岸線を100区画ほどの「場所」にわけて重臣に割り当て、アイヌと交易させた。重臣たちはアイヌから得た干鮭やニシン、干鮑などを松前の商人に売って稼いだ。18世紀になると近江商人が場所経営を請け負うようになり、漁場開拓も手がけた。
近江商人たちは北陸の船を雇って大坂方面へ荷を運んだ。その船主のなかから、みずから商品を売り買いして、蝦夷地と大坂を往復するようになったのが「北前船」だった。
中村家の近くの旧檜山爾志郡役所は1887(明治20)年に建てられた。洋風の建物は郷土資料館になっている。郊外の旧関川家別荘には高級な輪島塗や九谷焼などが無造作に展示されている。
関川家は新潟出身で、造り酒屋や金融、回船問屋と幅広く活躍し、13艘の船を運用していた。鴎島の常燈(現在の灯台)や小中学校、公立病院もつくった。
町の目の前に浮かぶ鴎(かもめ)島はかつては弁天島と呼ばれた。日本海の波風を防ぐ防波堤になり、天然の良港を形成していた。
海中にたつ高さ10メートルほどの瓶子岩には、折居という名の老婆が神様から託された瓶の水を海に注いだらニシンが押し寄せたという伝説があり、その瓶が岩になったとされている。
瓶子岩の周辺は何十艘もの北前船が繋留された。船をつないだ木の杭が今も残っている。島の台地の上にある厳島神社には、加賀国の橋立(石川県加賀市)の船頭たちが寄進した石鳥居がたっている。
江差の5月は江戸にもない
松前藩は、江差と松前、箱館(函館)の3つの湊でしか交易を認めなかった。江差は奥地のアイヌとの交易の最前線であり、江差以北の産物は、1870(明治3)年まではすべてここに集中した。逆に本州から来る北前船にとっては江差が終着駅だった。
「松前蝦夷記」(1717年)によると、江差の入船数は700で、福山(松前)の300、箱館の200を圧倒していた。御用商人の回船問屋だけで13軒、小規模な問屋を含めれば40軒以上が軒をつらねた。
とくにニシン漁の春になると、秋田や津軽、南部方面からヤン衆と呼ばれる雇い漁夫が殺到した。海辺に「浜小屋」と呼ばれる八畳間程度の仮小屋が100軒以上もならび、300人以上の遊女がいた。その多くは秋田や津軽の貧しい農家の娘だが、半年足らずで、当時の庶民の年収に匹敵する20−30両を稼いだとされている。
全国から旅芸人や瞽女がやって来て太鼓や三味線の音が鳴りひびき、「江戸両国にも劣らないにぎわい」と幕府の巡検使が報告し、「江差の五月は江戸にもない」と言われた。そのにぎわいは、ニシン漁が終わり、北前船がいっせいに出港する7月ごろまでつづいた。
上方や北陸から数カ月にわたる命がけの船旅の末にたどりつく江差はまぶしいほど活気にあふれた都会だったのだ。
アニメの「銀河鉄道999」を思いだした。999の終着駅は、永遠の命である「機械の体」をくれるアンドロメダ大星雲の惑星だった。
江差は「機械の体」のかわりに、綿や藍などの商品作物栽培を支え、莫大な財を生みだす「鰊粕」をもたらした。それを運ぶ北前船は1往復で船の建造費にあたる1000両を稼ぎだした。
当時の江差は「惑星大アンドロメダ」のような、だれもがあこがれる別世界だったのだ。(「江差花街風土記」を参照)
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