悲劇の高遠城と藩校
諏訪から峠を越えて、桜で有名な高遠城を訪ねた。武田家の悲劇の城で知られている。
武田勝頼の異母弟、仁科盛信以下3000人が守っていた高遠城に、織田信忠の5万人が殺到した。信忠は盛信に降伏を勧告したが拒否し、使いの僧侶の耳を削ぎ落として追い払った。500人の将兵とともに26歳で自決した。武田の家臣の多くが逃亡・降伏するなか、盛信だけが徹底抗戦を貫いた。家来にとっては迷惑な指揮官だった。
城の目の前には江戸末期に最後の藩主が創設した藩校「進徳館」がある。孔子などの中国の聖人像が祭られている。中国は学問の上でも先進国でありお手本だったことがわかる。辺境国としての日本がつつしみを忘れ、夜郎自大になっていくのは、1904年の日露戦争あたりだと言われている。わずか40年で日本人の精神はがらりと変わったのだろう。
スーパーの惣菜
高遠は平成の合併で伊那市の一部になった。伊那の中心街まで車を走らせてホテルに荷を降ろし、町を歩いてみた。
JR飯田線の伊那市駅周辺は地元資本のホテルや旅館がおそらく10軒以上もならんでいる。昭和初期と思われるレトロなビルも点在する。養蚕で栄えたためだろう。
レトロビルのスーパーで夕食の惣菜を物色した。
旅先でおいしいものを食べたいという欲がなくなって、コンビニの惣菜と発泡酒が夕食の定番だったが、今回はコンビニに飽きてスーパーやデパ地下を愛用している。意外な掘り出し物や、その地域にしかないものがある。きょうは「馬のもつ煮」。こりこりして抜群においしい。虫のサナギはひとりでは食べきれないからあきらめた。仙醸という酒蔵の純米直汲み生原酒「四季」(1100円)は生原酒らしく味が濃くてよい酒だ。
ゼロ磁場
翌朝は、パワースポットで知られる国道152号の分杭峠へ。
ふもとからシャトルバスがあるのだが、国道が災害で寸断されて運休中だ。狭い県道を迂回してのぼりつめた、大鹿村と伊那市の境界の1424メートルの峠は、野太いウグイスとセミの声だけが響いている。
分杭峠は日本列島を縦断する中央構造線の上にある。中央構造線に沿って、諏訪から太平洋に一直線につながるのが「秋葉街道」という。遠州秋葉山の信仰の道で、いまは国道152号になっている。
峠は、地球のプラスとマイナスのエネルギーが互いに拮抗して大きなエネルギーを生み出すという「ゼロ磁場」とされ、中国の気功師・張志祥が1995年に発見したという。
島根県松江市の陣賀山の「ゼロ磁場」を案内してもらったとき、「磁石がくるくるまわる。ここで太陽を見ると、細かい色の線が見えます。がんが消えた人もいます。サインカーブの波動がきて癒やされます」と説明された。
能登半島の先端、珠洲岬は海流と気流が交わる場で「富士山(活火山・断層地帯)と分杭峠(ゼロ地場地帯)とならぶ日本三大パワースポット」という説明書きがあった。珠洲岬は心地よい場所だけど、なにがパワーなのかわからなかった。
分杭峠で方位磁針を確かめたがふつうに北を指していた。
中央構造線
ここから大鹿村方面に国道152号を下ると、中央構造線を視認できるという「北川露頭」がある。
谷川まで下って振り返ると、赤い色と、緑と黒とが鮮やかにわかれている。赤い色の土が日本海側の内帯で高温のマグマが地下でゆっくりかたまった花崗岩。黒が太平洋側の外帯で、比較的低温で地下深くで高圧を受け薄い板を重ねたような構造に変化した結晶片岩という。
大鹿村の中心まで下った川沿いに大鹿村中央構造線博物館がある。
すぐ目の前の山肌は大きく崩落している。1961年6月に「大西山の大崩壊」が起きた跡だ。高さ450メートル、幅500メートルが崩れ、39戸が破壊され42人が死んだ。320立方メートルという土砂量は東京ドーム2.5杯分にあたる。東にそびえる南アルプスは1年間に4ミリ隆起しているそうだ。
中央構造線では、とてつもない大地のエネルギーを実感できる。そういう意味でパワースポットなのはまちがいない。
民俗資料館
隣には「ろくべん館」という民俗資料館がある。
大鹿村は農民歌舞伎で有名らしい。歌舞伎を見る際に「ろくべん」という5,6段重ねの独特の重箱を広げたという。
明治22年に鹿塩村と大河原村が合併して大鹿村になった。鹿塩村は潮水の温泉と塩づくりで知られていた。塩水を汲む「塩汲み桶」が展示されている。
登山家で宣教師のウェストンが、パンやチーズ、ウィスキーなどを運んだ大かごもおもしろい。
わかりやすくてきれいな資料館だが、段差が多いためまもなくリニューアル工事に入るらしい。
宇宙の闇を映したような藍色の空に燃えるような緑の山がくっきり浮かび上がり、山の端から積乱雲が湧き上がっている。まさに田舎の夏休みだ。
道の駅で鹿の焼肉定食1300円を食べて帰途についた。
コメント