かつて新聞記者として勤務した出雲(島根県)と熊野(和歌山県)は神話の時代から深くつながっていた。ぼくが育ったさいたま市の氷川神社は出雲系ゆえに「大社」になれなかったともいわれる。死の世界を感じさせる出雲・熊野から見た伊勢は明るく清らかで薄っぺらい。一度は歩いておこうと37年ぶりに伊勢市駅に降りた。
伊勢参りと皇室は無関係
JR伊勢市駅から広々とした参道を5分ほど歩くと外宮(豊受大神宮)の入口だ。うっそうとした社叢の参道沿いに杉の巨木が林立している。
正宮の隣には正宮と同じ広さの空地があり玉砂利が敷き詰められている。20年ごとの遷宮で建て替えるためだ。
2013年の遷宮で新調された社殿はヒノキの香がただよってきそうだ。分厚いかやぶき屋根が重厚な雰囲気を醸している。
外宮の祭神である豊受大神(とようけのおおかみ)は「食」の神だ。内宮(皇大神宮)の祭神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)の食を司る司御餞都神(みけつかみ)だという説明もあるが、中世には外宮の祭神が内宮よりも神格が上であると主張する伊勢神道(度会神道)もあり、両者はかならずしも上下関係ではなかった。五来重によると、外宮は食べ物の神、内宮は豊作祈願の神として農民に信仰されていた。江戸時代の伊勢参りには、皇室の先祖にお参りをするという観念はなかったという。
外宮の隣には、勾玉池に三方を囲まれた茜(あこね)社というかわいい名前のお宮がある。伏見稲荷のように約30の鳥居が一列にならび、その下をくぐって境内に入る。無数のキツネの置物が飾られた豊川稲荷神社と、菅原道真の御霊を入魂したという牛像を御神体とする「茜牛天神」が祀られている。牛の像は、疫病をしずめるとされる牛頭天王と関係があるのだろう。
かつては地名から「赤畝社」と呼ばれたが、江戸末期から明治初期に「茜」の文字があてられたそうだ。
内宮まで4キロを歩くと、同じ伊勢神宮でも、外宮と内宮は別の町だったことを体感できる。外宮の鳥居前町だった山田と、内宮の鳥居前町だった宇治は1889年の町村制施行によって宇治山田町(1906年から宇治山田市)となり、1955年に周辺の村と合併して伊勢市になった。
復活した鳥居前町
外宮と内宮を結ぶ「御木本道路」は真珠養殖で財をなした真珠王、御木本幸吉(1858~1954)の寄付で建設された。この道をたどって山際に近づくと内宮の鳥居前町「おはらい町」に入った。ツバメの子があちこちでヨタヨタフラフラ飛ぶ練習をしている。
お伊勢参りは庶民にとって一生に一度の遊興だった。そのため、外宮と内宮の間には多くの女郎屋が軒をつらねた。明治期の日本を旅した英国の女性探検家イザベラ・バードはその風景が苦痛で「この国では悪徳と宗教が同盟を結んでいるようにみえる」「巡礼地の神社がほとんどつねに女郎屋で囲まれている」と記した。
「おはらい町」は戦後のモータリゼーションで衰退したが、「赤福」が1979年から電線地中化や石畳の整備に乗り出し、1993年にはおはらい町の中心に「おかげ横丁」を開いた。伊勢参りでにぎわった江戸から明治にかけての建築物が再現され、食堂や茶屋、名産品の店が観光客を集めている。
アマテラスは男神?
おはらい町を抜けると五十鈴川に出る。木造の宇治橋を渡ると内宮(皇大神宮)の神域だ。清流と背後の森の組み合わせが清らかな厳かさを演出している。この地を選んだ人の天才的なセンスを感じる。
この場所に内宮をつくったのは11代垂仁天皇の娘、倭姫命(やまとひめのみこと)と伝えられている。
天照大御神は長らく天皇と「同床共殿」で皇居内に祀られていたが、それを畏怖した第10代崇神天皇が皇祖神にふさわしい場所をさがすことにした。孫の倭姫が現在の場所を探し出した。倭姫は後に日本武尊(やまとたけるのみこと)に草薙剣を与えている。彼女は伊勢で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、これが制度化されて、未婚の皇族女性が伊勢の地で天照大神につかえる「斎王」になったという。斎王制度は南北朝時代まで660年間つづいた。
斎王が未婚の女性なのは、天照大神が男だからではないか、という説もある。斎王のもとに伊勢の神が夜な夜な通ってきて、その姿は蛇で、寝床にウロコを残していったという言い伝えもある。
別宮の風日祈宮(かざひのみのみや)という名が、風の谷のナウシカの守護神のように思えて参拝した。古くは「風神社」だったが、1281年の元寇の際に神風を起こし日本を守ったとして別宮に昇格した。
別宮は小さくて建物の構造もわかりやすい。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)とともに14カ所の別宮も式年遷宮で建て替えられる。
石垣に囲まれた高台に正宮がある。玉砂利の境内を神官が歩くとザリッザリッと乾いた音が響く。透明な清らかさだが、森そのものに「神」を感じる熊野本宮大社の旧社地・大斎原のすごみはない。
廃仏毀釈と神社合祀
内宮を出て、おはらい町を抜け、猿田彦神社と月読宮(つきよみのみや)を参る。早朝から10キロ以上歩いているのに仏教の寺がひとつもないことに気づいた。
出雲も寺がきわめて少ない「神の国」だった。
1890(明治23年)に来日したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、岡山側から山陰側に峠を越えると「諸願成就 御祈祷修行」という美保神社の御札が目につくようになり、仏教との結びつきが深い庚申は猿田彦命と名が変わり、「もはや仏陀の顔をさがそうとしても無駄である」と記した。多神教のギリシアに生まれたハーンは、神々が生きている出雲に懐かしさを感じたらしい。
一方、出雲には「神の国」ゆえの問題が今も残されている。21世紀に入っても「あの家は狐つきだから」と結婚を断られる差別事件が起きている。特定の集落の住民だけ、氏子代表であるトウヤ(当屋)になれず、神事で裃(かみしも)を着用することも許されない地区もある。被差別部落として名乗り出ることさえはばかられているという。
伊勢も同じなのだろうか。
調べてみると、出雲とはちがって、伊勢神宮周辺には江戸時代にはきわめて多くの寺があった。1670年に発生した山田(外宮のある町)大火以前には371、江戸末期の1855(安政2)年でも120もの寺院があった。内宮の敷地には神宮寺が同居していた。
だが、明治元年にはじまる廃仏毀釈で、葬儀が仏葬から神葬祭に転換され、檀家を奪われた。さらに、明治天皇の伊勢神宮行幸が1869(明治2)年3月に計画されると廃仏は徹底された。寺院の数は昭和のはじめには24まで激減した。
仏教寺院は廃仏毀釈で痛めつけられたが、三重県では、明治末期に神社を襲った神社合祀の方がさらに苛烈だった。
神社合祀は1906年、第1次西園寺内閣における勅令で進められ、1914年(大正3年)までに全国約20万社のうち7万社が取り壊された。三重県では全県10413社の約9割がつぶされ1165社しか残らなかった。
伊勢が「神々の国」と呼ばれたのは、伊勢神宮だけではなく、おびただしい数の社や祠が存在していたからだ。中沢新一によると、従来の神道は、道徳などの人間的価値の外に広がる自然と宇宙に開かれていた。ところが合祀以後の神道は、「人間ならざるもの」の領域につながる要素を隠し、自らを道徳化することで、人間世界の外に広がる自然の領域に触れようとしない貧しい宗教になってしまったという。(「熊楠の星の時間」)
苛烈な合祀によって伊勢神宮「一強」状態になり、自然とともにあった神々の多様性が失われてしまった。廃仏毀釈や神社合祀は、日本版の文化大革命だったのだ。
ちなみに三重県とともに神社合祀で9割の神社が消滅した和歌山県では南方熊楠が激しい反対運動を展開した。熊楠が守ったという神社や森が各地に残されている。
内宮と外宮の間に位置する倉田山に別宮・倭姫宮(やまとひめのみや)がある。森は深いが参道沿いの杉はまだ細い。
伊勢神宮を創建した倭姫をまつる神社は存在しなかったが、明治になって倭姫命の神社を求める声が高まった。宇治山田市は神社創立を国会に請願し、1923年に建てられた。 神社合祀の嵐から10年も経たずに皇室とのかかわりによって誕生した別宮は、国家神道化を象徴する存在だ。
倭姫宮の森のわきの日本最古の私設博物館神宮徴古館には、2013年の式年遷宮で引退した神宝の数々を展示している。
かつて60年に一度「おかげ参り」のブームがあった。1830(文政13)年には当時の日本の総人口の6分の1にあたる500万人が殺到したとされる。遷宮のあった2013年は、1895(明治28)年以降で最高の1420万人が参拝し、「平成のおかげ参り」と言われた。
川沿いの問屋街
伊勢市駅にもどる途中、勢田川沿いにある河崎という地区に寄った。川沿いに蔵や切妻屋根の町家がならぶ。江戸時代は、舟で運ばれてきた物資を水揚げして内宮と外宮の神宮前町に中継する問屋街で「伊勢の台所」だった。蔵や町家はカフェや和菓子屋、料理店、古本屋などに活用されている。
「日本のベニス」と呼ばれる、富山県射水市の内川という運河沿いの町に雰囲気がよく似ている。
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