神仏習合の大権現
約20の風車がくるくる回る山に向かって歩いていると、田んぼから今年はじめてカエルの声が聞こえてきた。
津兼(井関)王子跡は、阪和自動車道広川インターの建設工事で消滅したが、インター脇に碑が立っている。
旧道沿いを10分たどると、山の斜面に無数の鳥居がへばりついている。きつねを祀る伏見稲荷大神、弘法大師のお堂、白龍大明神、王子大権現……10以上の神仏の集合体だ。「丹賀大権現」。熊野詣の途中で体調を崩した白河法皇が白髪の老人に救われたのに感謝して祀ったのがはじまりと伝えられている。近くには道標を兼ねた天保の飢饉犠牲者の七回忌供養塔も立っていた。
聖なる場所は世界共通?
河瀬王子は合祀されてしまったが、その跡地の森には巨石が横たわっている。昔ながらの磐座信仰だろう。巨石や巨木には独特の霊気を感じる。グアテマラのマヤ先住民族の女性が日本に来た時、巨岩の前で「ここは大事なところ」と言って祈りを捧げていたのを思い出した。
ぼくも遍路道を40日間歩いてから、「このへんはなにかあるなあ」と感じると、石仏や道祖神を見つけることが増えた。霊感とは言わないが、風土の要のような場所は体で感じるものなのかもしれない。
沿道にいくつか「旅籠跡」があり、延命山地蔵寺という寺には、てっぺんが四角錐(すい)の軍人墓が10基あまりならぶ、ミンダナオやルソン、中国で死んでいる。あの時代、日本中に死が蔓延していた。
柳田国男はこうした戦争犠牲者をどう位置づければよいか悩み、終戦直前に「先祖の話」を書いた。戦場で死んだ若者には子どもがいない。彼らを忘れないためにも「先祖」として弔いつづけなければならない。「先祖」という他者が「ある(存在する)」と実感しつづけることが、人々が正しく生きるための基盤になり得ると柳田は考えた。
軍事政権によって家族を殺されたグアテマラのマヤ女性たちは、祈りを通して先祖とのつながりを確かめることで過酷な人生を生き抜いてきた。先祖代々の生活や文化を継承することがたたかいだった。
「死者」を意識することは、苦難にあってもあきらめず、よりよく生きることにつながるのだということが、ぼくにも少しだけわかってきたような気がする。
難所の峠の石仏の不思議
熊野詣での貴族たちが籠を降りて牛馬の背に乗り換えたという「東の馬留王子跡」をすぎ、簡易舗装の急坂になった。イノシシよけの柵が道の周囲に張り巡らされている。
ウグイスのすんだ声が、人が語りかけているように聞こえる。近くにいるのだけど姿は見えない。これもまた死者の実在に近いのかもしれない。
ふもとから50分かけてのぼった尾根の石積みの上に「大峠の地蔵」があった。「是より紀三井寺七里」と道標も兼ねている。なぜか洗濯機のおもちゃが供えられていた。「痔の神地蔵」「縛られ地蔵」とも呼ばれ、尋ね人が見つかるよう縄をかけ、見つかると縄を解く風習がつづいているそうだ。
隣に鎌倉時代の僧、日像上人が流されたという法華壇があり、その先が鹿ケ瀬(ししがせ)峠(354メートル)だ。森に囲まれて眺望はないが、陽の当たる草原が広がり、黄色い花が咲き乱れている。昭和初期までは茶屋があったという。
ちょっと下った大木の根元に馬頭観音が祀られている。3つの観音の顔の上に巨大な馬がのっている。観音の頭に冠のように小さな馬がならぶ馬頭観音に見なれていたから、馬の存在感の大きさが不気味だった。
峠からの下りは500メートルほど、昔ながらの石畳が残っている。苔むした石畳はすべるから歩きにくいが、昔の旅人は草鞋をはいていたから滑らず、石畳をありがたく思えたのだろう。
鎮守の森の魅力
しだいに谷が広がり、棚田の石積みがあらわれる。萱やススキに覆われ、猪の罠が置かれている。こんな山奥まで田をつくっていたから、敗戦直後の混乱期でも餓死者はほとんど出なかったのだ。
車道に下りきったところが、金魚が旅人の目を楽しませたという金魚茶屋の跡。さらに下ると、みずみずしい水田が広がる。
沓掛王子跡の近くに昨日につづいて、弘法大師が爪で刻んだという「爪かき地蔵」があった。水をかけると現れるから水かけ地蔵と呼ばれ、信仰心がない人は水をかけても姿を拝めないという。水をかけなくてもぼくには地蔵が見えたけど。
原谷地区は全国一の黒竹の産地だ。紀州黒竹民芸品組合の隣の門構えが立派な社は、先ほどの沓掛王子などを吸収合併した原谷皇太神社だった。
馬留王子と内ノ畑王子社の跡を経て、平野に出ると、こんもりした鎮守の森が見えてきた。木の鳥居をくぐるとウグイスが間近でうたうが、相変わらず姿は見えない。高家王子跡がある内原神社だ。
鎮守の森にはなぜかひかれる。
生態学者の宮脇昭さんの「鎮守の森」という本によると、昔の日本人は、自然に対する畏敬の念をうまく使い、尾根筋や急斜面、水源地、岩場や岬などの深い森に寺や神社、祠を建てて、土地本来の植生を残してきた。そういう森は、セイタカアワダチソウのような外来種やアメリカシロヒトリのような害虫にもやられない。鎮守の森の魅力に比べると、社殿はしょぼくて魅力に欠けることが多い。信仰の対象は社殿ではなく森そのものなのだ。「無住の寺はすぐに荒れるが、森に囲まれたお宮さんは無人でも手入れが行き届いている」と指摘していた。逆に、森がすたれれば日本人の宗教心も廃れることになるという。
清姫は鬼女か少女か
田んぼの道をたどって御坊市に入る。山際の森にある「善童子跡」を過ぎ、農家のわきからうっそうとした竹林の小径を数百メートルたどると、子どもが竹やぶにつくった秘密基地のような空間がぽっかりと開けて、愛徳山王子跡の碑が立っていた。
さらに20分ほどで「安珍・清姫伝説」の道成寺(日高川町)に着いた。
熊野を詣でる旅僧・安珍を恋い慕った清姫が、裏切られたと知るや大蛇となって追いかけ、道成寺の鐘のなかに逃げた安珍を焼き殺すという物語だ。
清姫の執念で焼け落ちた初代の鐘は、数百年後に再興されたが、清姫の怨霊に落とされ、戦乱を経て、京都・岩倉の妙満寺の寺宝になったという。
清姫の出身地とされる田辺市中辺路町では、数え13歳の清姫は、安珍に逃げられたのを悲観して淵(ふち)に身を投げ、怨霊が大蛇になって安珍を殺した――と伝えられていた。執念の女ではなく、かわいそうな少女だった。
本尊の千手観音の柔和な顔を見ていると、純粋な少女である清姫の化身であるような気がしてきた。
線路沿いの海士王子跡のお堂では、おじさん2人が真剣に手を合わせている。和歌山の王子跡は今も信仰の対象だなのだ。
この日は22キロ歩き、JR御坊駅から列車に乗って大阪にもどった。(つづく)
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