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熊野古道・紀伊路⑦みかんの原種は常世から(海南〜拝ノ峠)

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熊野が発祥「鈴木さん」

20210508祓戸王子へ-ミニ四国 (4 - 8)

 早朝の海南の町は朝靄にけぶっている。古びた商店がならぶ旧街道を、緑の屏風のようにそびえる山へ向かう。
 藤代神社への途中、左手の山道に分け入ると、十番、十五番……と刻まれた石仏が斜面にならんでいる。ミニ四国八十八カ所だ。
 源平の争乱で熊野水軍が源氏に与したことで熊野修験者が四国に浸透し、辺路修行の行場をネットワーク化したことが「四国八十八カ所」につながったという。だから88の札所の半数以上で熊野権現がまつられてきた。近世以降四国遍路が盛んになると、各地に「ミニ四国」がつくられ、熊野にも逆輸入されたようだ。遍路道を思い出しながら山道を5分ほどたどった一番奥が祓戸王子跡だった。
 道路にもどると全国200万といわれる鈴木家の元祖の屋敷跡がある。広々とした庭園と壊れかけた小屋が残っている。
 平安時代、熊野からこの地に移り住んだ鈴木氏は、王子社(現在の藤白神社)の神官を代々つとめた。熊野信仰を広めるため一族が各地におもむくことで、鈴木姓が全国に広まったという。元祖鈴木家は1942年に122代で絶えたが、いま屋敷を復元する工事がはじまっている。
 元祖鈴木家に育った鈴木三郎重家と亀田六郎重清兄弟は源義経とともに衣川で死んだが、秋田県羽後町の鈴木家(国の重要文化財)では、重家が落ちのびて羽後の鈴木家をつくったと伝えられている。

峠の池の鯉は薬

20210508藤代神社 (8 - 9)

 藤白神社は、熊野九十九王子のなかでも格式が高い「五体王子社」のひとつ藤白王子だった。外からながめると神社全体が楠の森のようだ。大きい木は幹廻り10メートル、樹齢千年といわれる。かつては現在の神木を全部あわせたより大きな楠があったが、飢饉のとき資金をつくるために切り倒した。その切り株から4本発芽し、今でも3本が残っているそうだ。
 昭和の中頃まで、子どもの名前に楠神さんにあやかって「楠」の字を入れた。南方熊楠もそのひとりだった。
 有間皇子の墓では、近所のお年寄りが掃除をしている。大化の改新後の政争で斉明天皇と中大兄皇子への謀反を画策してこの地で絞首刑に処せられた。享年19歳。悲劇のテロリストだった。
 すぐに急坂になる。丁石地蔵が立つ本格的な峠道は「熊野の聖域への入口」にふさわしい。

20210508筆捨松硯石まで (10 - 12)

 ミカン畑や木立の間から海南の町を見おろすと、工業地帯やマリーナシティが埋め立てで造成されたことがよくわかる。「筆捨松」は、平安初期の官廷絵師が熊野権現の化身である童子と絵を競って負け、絵筆を松の根元へ投げ捨てたという。その伝承にちなんで、徳川頼宣が重さ10トンの硯石を彫らせた。1983年の水害で押し流され埋もれたが、2003年に掘り起こして復元した。

20210508峠の地蔵峰寺へ本尊 (1 - 1)

 ふもとから40分かけて着いた標高291メートルの峠には地蔵峰寺という立派なお寺がある。鎌倉時代につくられた本尊の石造地蔵菩薩坐像(国の重要文化財)は、霊的なおごそかさと素朴な愛敬を感じさせる。
 寺の裏は「御所の芝」という展望台になっている。海南の町や和歌浦、紀伊水道を挟んで淡路島までが見渡せる。毎月遊びに来るという男性は「ここの夕陽は最高っすよ」と言っていた。
 寺の周囲には8軒の家がある。散歩していたおばあさんによると、どの家もみかんで生計を立ててきたが、2軒は空き家になってしまった。
「登山道も荒れてるやろ。昔は掃除したんだけど、年くってできなくなってのぉ。限界集落よ」

20210508峠の地蔵峰寺鯉の池 (1 - 4)

 集落の溜め池の上には鳥よけのひもが張り巡らされている。300匹以上の鯉がいるそうだ。
 肺炎や結核になるとお地蔵さんに願をかけ、鯉を1匹もらって生き血を飲み、身は生のままで食べると病気が治った。治ると鯉を2匹返したという。
「今はフナばかりや。ひもをはっても、きれいな鯉は目立つから鳥に食われてしまう」とおばあさんは言った。
「8軒では餌代で苦労しています」とカンパを呼びかけていた。100円玉を箱に投じた。

万葉集に詠まれたタチバナの香

20210508蜜柑山を橘本王子へ (6 - 11)

 前方にそびえる山の稜線で9基の風車がまわっている。谷まで下って、ふたたびあの山まで登り返すのだ。大地のしわを無数に越えるのが巡礼だ。
 下りきった集落の阿弥陀寺の境内に橘王子跡を参って、加茂川沿いをさかのぼる。両岸に集落がつづくから、数十メートルおきに橋があり、下から1号橋、2号橋……と数字がふられている。

タチバナ

 橘本神社境内に所坂王子跡がある。橘の木の横に「今から1900年前、田道間守(たぢまもり)が垂仁天皇の命を受け常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)はこの橘樹であり、今のみかんの原種であります」と書いてある。キンカンよりひとまわり大きい程度の実をつける。
 渡来人の子孫である田道間守は。病気になった垂仁天皇の命令で延命長寿の「非時香菓」を探す旅に出た。常世の国でこれを手に入れ10年後に帰国すると垂仁天皇は亡くなっていた。田道間守は「常世の国」の風土に似ている土地を探し求めて熊野街道沿いの橘本に橘を植えた……という伝承だ。
 ちなみに奈良県明日香村の橘寺の名は、田道間守が橘を植えたことに由来するとされる。熊本県八代市では、田道間守は、景行天皇(垂仁天皇の子)がいた肥後まで追いかけて橘を献上して自決し、天皇が現在の八代市高田に橘を植えたと伝えられている。
 万葉集では68首の歌に橘が詠まれ、古事記、源氏物語、伊勢物語にも登場する。「永遠に香りつづける」橘をブレスレットや首飾りなどにして身につけたという。
 タチバナは、紀伊半島と九州、四国に自生している。タチバナと沖縄のシークワーサーだけが日本固有の柑橘だ。3世紀末の魏志倭人伝は、日本にはショウガや橘、ごま、ミョウガが自生しているのに利用していないと記されている。
 タチバナが日本固有種ならば常世の国からもってくる必要はない。田道間守がもたらしたのはタチバナとはちがう品種ではないか、それはダイダイではないかという説が有力になっているという(御前明良「紀州有田みかんの起源と発達史」、1999)。

20210508一壺王子山路王子神社へ (7 - 7)

 加茂川沿いをさらにさかのぼった、20号橋前の山路王路神社に一壺(いちつぼ)王子があった。泣き相撲で知られ、立派な土俵がある。
 神社の上流で家並みが途切れ、簡易舗装の急坂をあえぎながらのぼる。稜線の風車が間近に見える山の斜面に集落が広がっている。こんな山の上に! と驚いたが、車が普及する前は、山の中腹の往還道沿いに開けたムラは多かった。谷に車道ができると中腹の集落はすたれるが、ミカンという換金作物があるから車道がつけられ集落が残ったのかもしれない。
 ミカン山は稜線間近まで城のように石垣が刻まれている。大変な労力だったろう。だがところどころ雑草に覆われた石垣もある。オレンジ輸入自由化前と比べると、みかんの売れ行きも大幅に落ちているのだろう。
 一壺王子跡から50分かけた標高322メートルの拝ノ峠まで登った。藤代の峠よりもきつい坂だった。(つづく)

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