虚栄の塔
JR和泉橋本駅(貝塚市)近くの正福寺が鞍持王子の跡らしいがわからなかった。駅から20分ほどの南近義(みなみこぎ)神社は、鎮守の森に囲まれ、境内は明るい。もとは丹生神社と呼ばれたが、明治40から42年にかけて南近義地域の神社をまとめて南近義神社と改名された。鞍持王子と近木王子も合祀された。 旧街道を泉佐野市に入ると、蝶が舞うため池の向こうに、1996年に竣工したりんくうゲートタワービル(256.1メートル)が見えた。
前年に大阪市が大阪南港に建てた大阪ワールドトレードセンタービルディング(WTC)(現在の大阪府咲洲庁舎)と高さを競い、完成時に0.1メートル上まわった。「ゲート」の名が示す通り、当初は関西国際空港連絡橋をはさむツインビルとして計画されていた。WTCもりんくうゲートタワーも、バブル崩壊とともに運営会社が破綻した。
欲と虚栄心のかたまりは、今も独特の存在感を放っている。
住宅街にある佐野王子は、5,6本の古木とツツジが彩っている。ここも明治41年に合祀された。
関空への空港連絡道と線路をくぐると、古い農家や屋敷がならぶ落ち着いた街並みだ。正平18(1363)年の年号が刻まれた石地蔵と菜の花畑と、彼方のりんくうゲートタワーのコントラストが非現実的でSFのようだ。
「夏の陣」が誇り
昼すぎ、籾井王子跡があるはずの集落で、「塙団右衛門(ばんだんえもん)直之の五輪塔」「淡輪六郎兵衛重政の宝篋印塔」「樫井古戦場」の碑にでくわした。塙と淡輪は、大阪の夏の陣の最初の激突、樫井の戦いで、紀伊の浅野長晟(ながあきら)の軍に突入して討ち死にした武将だ。
あとで調べると、塙団右衛門の子孫は櫻井と姓を変え、島根県の奥出雲でたたら製鉄を営んだ。ぼくは島根県に住んでいるとき、たたら製鉄にひかれて櫻井家に何度も足を運んだが、塙団右衛門との関係は見落としていた。
樫井川を渡ると泉南市に入り、まもなく国史跡の海会寺(かいえじ)跡に着く。芝生と森が美しい公園だ。7世紀に建てられたという塔や金堂、寺をつくった豪族の屋敷の柱跡が復元されている。出土した軒丸瓦は、奈良の木之本廃寺と四天王寺と同じ文様で、強い関係があったことを示すという。
ずっとトイレを我慢していたが、ひと目がない森でようやくすっきりした。新緑の森は大地の生命力を感じさせてくれる。
新興住宅地の路地を入ったゴルフ練習場の手前に厩戸王子跡の小さな石碑がある。ここも明治40年に市岡神社に合祀された。
合祀、ごうし、ゴーシ……。四国遍路の札所とちがって熊野の九十九王子はほとんど消えている。里の神々を消し去った神社合祀は廃仏毀釈とならんで日本版の文化大革命だったのだ。
「聖地・熊野へ215キロ」の案内板があった。ひたすら歩けば1週間の距離だ。
信達宿の歴史の魅力
水なす漬の店を見て、泉州が水なすの産地だったことを思い出した。生でも食べられる珍しいなすだ。
泉州は、砂地で水はけがよすぎて米が作りにくいため多くの溜め池がつくられた。逆にこうした土壌は水なすや玉ねぎにぴったりだった。
周辺の地名は「信達(しんだち)市場」という。信達は、和歌山藩主の参勤交代のために整備された紀州街道の宿場町で、商業が栄えたため御所村を市場村と改名した。年末の「歳の市」は街道沿いに露店がびっしりならんだという。
常夜灯は江戸時代から1992(平成4)年まで200年間、「常夜燈講」の人によってともされつづけていた。電気による自動電灯になったが、今も常夜灯の役割を果たしている。
真如寺という寺は吉宗とゆかりがあり、「君が代」に出てくるさざれ石がある。
四国の遍路道沿いからほとんど消えてしまった昔ながらの畳店もある。
街道沿いの「野田ふじ」の藤棚は奥行き27メートル、幅30メートル。木陰が涼しい。毎年3万5000もの花房をつけるという。
かつて旅籠をしながら油を扱っていた梶本家の先代当主、梶本昌弘さんが1987年、奥さんが生け花用に購入した藤を片隅に植えた。それが40年かけて今の姿になった。梶本さんは「平成の花咲じいさん」と呼ばれたが、2008年に亡くなった。
かつて取材で訪れた能登半島の輪島市(石川県)の大西山という集落は、ひとりの女性がホームセンターで買った水仙の球根3粒を植え、30年後に数万輪の花が咲き誇る「能登の桃源郷」になった(藤井満『能登の里人ものがたり』=アットワークス、2015年 )。会社とも組織とも関係がない1人の力で成し遂げた偉業に人間の底力を感じた。
いしわた村
盛りだくさんの宿場町をキョロキョロ眺めて歩いていると「泉南石綿の碑」に目に飛び込んできた。泉南市はアスベスト被害で有名なことを思い出した。
泉州は、綿花栽培が盛んで、綿織物の熟練工が多かった。溜め池や用水路も整い、動力源になる水車もあった。それらを活用して明治になって石綿紡織業が興った。泉南市と阪南市にまたがる地域は、高度経済成長期には下請けや家内工業を含めると200を超える工場が集中し、全国の石綿生産の6、7割を占め、「いしわた村」と呼ばれた。
アスベストによる肺がんや悪性中皮腫の問題に立ち向かったのが1953年に医院を開業した梶本政治医師(1913〜94)だった。健康被害に警鐘を鳴らし、石綿工場を訪ねて危険性を説き、防塵設備の強化や、時には操業停止を迫った。
国の責任を問う国家賠償訴訟が2006年に提起され、2014年に最高裁は健康被害に対する国の責任を認める判決をくだした。最後の石綿工場は2005年に廃業した。
医院跡には2019年に「アトリエ泉南石綿の館」という資料館が開館した。ぼくが訪ねた日は、残念ながら開いていなかった。
街道を、ランドセルを背負った子が何人も歩いている。小さな1年生は、ランドセルから手足が生えたみたいだ。
「信達一之瀬王子跡」の碑が立っている。その裏に、馬頭観音や男根型の道祖神などが祀られていた。
巨樹は合祀の生き残り
信達のまちを抜け、溜め池沿いに歩いて路地に入ると、燃えるような新緑の巨樹があらわれた。岡中鎮守社の大樟だ。
この社は明治期に信達神社に合祀され、大木のほとんどが伐採されたが、樟と槇だけ残された。樟は樹齢800年以上。根元の周囲12メートル、樹高30メートル。境内から隣の公園へ大きくはみだした幹を遊具の滑り台ほどの大きさの台が支えている。恐竜のような迫力がある。4,5人の見学者がカメラを向けていた。
樟ほど目立たないが、実は隣の槇(根元の周囲3.4メートル)の方がさらに古いらしい。
阪南市に入ってまもなくの和泉鳥取駅近くに石造りの鳥居がある。この隣に長岡王子跡があるはずだが見当たらない。よくよくさがすと、鳥居の下の駐車場に古い碑があった。
山に向かって県道をのぼり、左手の住宅街の小さな公園の端っこに40センチほどの「地蔵王子跡」の碑を見つけた。
さらに県道をさかのぼると、左側の法面の下に「馬目王子」の碑があった。ご神体の丸石は山中神社に祀られているといわれている……と書いてある。丸石は山梨では道祖神としてまつられている。熊野のお宮でもよく見かけた。ここにも丸石信仰があるのだろうか。
まもなく「歴史街道」として整備された石畳の道に入り、山側に山中神社を見つけた。境内に「馬目王子社」という石の祠があるが丸石は見つからなかった。
熊野街道は江戸時代、「紀州街道」と呼ばれるようになった。山中宿には20数軒の旅籠があり、最後まで残ったのが「とうふや」だった。昭和の終わりごろに姿を消したという。そんな旅籠に泊まってみたかった。
石畳の道を抜けた出口に、板状の石を屋根にした小さな祠があり塞之神を兼ねた道祖神が祀られている。
若葉が彩る渓流沿いにあるJR山中渓駅に着いたのは午後4時近かった。5時間半で21キロ歩いた。(つづく)
コメント