舟運が復活
熊野を詣でる平安京の貴族たちは伏見から舟に乗り、淀川を下って約35キロ南の大阪・天満橋の八軒家に上陸した。同じ航路を江戸時代は三十石舟が下り半日、上り1日かけて結び、明治になると蒸気船が往来した。
1910(明治43)年に京阪電鉄が京都・五条と天満橋の間に完成すると水運は衰えたが、95年の阪神大震災で陸上輸送網が寸断されて舟運復活の機運が生まれ、2017年からは週末を中心に八軒家浜船着場と16キロ上流の枚方船着場の間を観光船「淀川浪漫紀行」が運航している。
1201年10月、後鳥羽院の熊野詣に従った藤原定家は、石清水八幡宮で道中の安全を祈ってから淀川を下り、八軒家に上陸した。819年後の1月、僕も八軒家の船着き場に立った。「川の駅」の前の川面では小さな筏の上にのせたコタツで、「水上ピクニック」と称してカップルが飲食を楽しんでいる。
極楽の東門
熊野古道には、九十九王子と呼ばれる神社があった。それぞれのムラのお宮が12〜13世紀に、熊野詣の途中で儀礼を催す場として組織された。八軒家浜船着場近くのビルの谷間にある坐摩神社行宮が最初の王子「窪津王子」跡だとされている。
熊野街道はここから、昭和の大阪の繁栄のなごりである古びたビルがならぶ裏通りを南下する。「ランチ500円」という定食店やそば屋、ウナギ屋、カレー屋からおいしそうなにおいが漂ってくる。会社員だったころは、大阪の町の昼のランチが楽しみだった。
30分ほど歩いた南大江公園の端っこに「狸坂大明神」の赤い鳥居がある。「坂口王子」跡だ。空堀商店街のアーケードを過ぎ、マンションの玄関先に立つ「上之宮王子跡」の石碑を経て、日本一の高層ビルあべのハルカス(高さ300メートル)に向かって歩いて四天王寺に着いた。
中世までは上町台地にある寺の西側まで海が迫り、寺は大阪湾に沈む夕日を眺める絶好の地だった。春分と秋分には、四天王寺の西門と、石の鳥居を結んだ直線上に夕陽が沈む。西門は「西方浄土(極楽)の東門」と考えられていた。そのためか、夕刻の四天王寺には今もしんみりした死のにおいがただよう。
宝物館で「元三大師堂 鬼となった高僧 良源祀る御堂の歴史」という特別展をやっていた。「慈恵大師」「元三大師」と呼ばれた18代天台座主、良源(912~985)は規律の乱れや腐敗を一掃するために綱紀粛正をはかった。死後は難を打ち払う者として信仰され、「角大師」「鬼大師」と崇められた。「鬼滅の刃」ブームの今にぴったりの企画だが、ここでは「鬼」は正義の味方だ。
身代わり申
熊野街道の起点である南門を出て300メートルほど南に下った庚申堂に「青面金剛童子」という青いのぼりがひるがえる。境内には「見ざる言わざる聞かざる」の三猿をあしらった碑がいくつも立っている。お寺の女性は「庚申堂の発祥の地と言われています」と説明した。
中国の道教では、人の身には三尸(さんし)という虫がすんでおり、60日に一度の庚申の夜、人が眠っている間にこっそり体から抜け出してその人の行状を天帝に報告し、それに応じて天帝が人の寿命を縮めるとされる。だから庚申の夜はみんなで集まり眠らずにすごした。いつしか「庚申待」「庚申講」と呼ばれる徹夜の宴は庶民の娯楽になっていった。
庚申堂といえば、京都・東山の「八坂庚申堂」が有名だ。朱色の山門をくぐると、小さなお堂や本堂の周囲にカラフルな布製の「くくり猿」が、巨大なぶどう棚のように無数に吊されている。ここも「日本最古の庚申堂」と称している。
奈良の旧市街・奈良町では、民家の軒先に「身代わり申」が吊され、庚申堂が町のあちこちに立っている。奈良町は世界遺産・元興寺を中心に開かれ、江戸時代は墨や酒、蚊帳などの産業の町として栄えた。私設資料館「奈良町資料館」にはそんな歴史とともに、中国・敦煌の石窟にあった唐代の垂れ幕に「身代り申」とよく似たものがあったと紹介している。資料館の館長さんに庚申信仰の歴史を尋ねると「四天王寺や京都も最古を名乗ってますが、ここの元興寺は奈良時代です。あえて言いませんが……」と笑っていた。
庚申堂の本尊は青面金剛。南方熊楠はインドのインドのヴィシュヌ神が転化したものではないかと記した。四天王寺の青面金剛も拝みたかったが、残念ながら60年に一度しか開帳されないという。(つづく)
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