1731年につくられた日本最古の「パナマ運河」である見沼通船堀は国の史跡に指定されている。
JR武蔵野線東浦和駅におりると、農村に開けた新興住宅地だ。
その一画のうっそうとした竹やぶが通船堀の公園だった。
駅に近い方が代用水の西縁、600メートルほど離れて芝川、さらに400メートル離れて代用水の東縁が並行して流れている。この3つを結ぶのが通船堀で、ふたつの用水と芝川のあいだの3メートルの落差を閘門を使って上下するようになっていた。通船堀は東縁側が約390メートル、西縁側が645メートルある。
代用水付近の村々から江戸へ年貢米や野菜、薪炭、酒、柿渋などが輸送され、江戸からは肥料、塩、魚類、醬油、荒物などが運ばれた。船を通すのは田に水を使わない時期で、はじめは秋の彼岸から春の彼岸までだったが、のちに冬場の2カ月程度に短縮されたという。大正時代の終わりごろには利用がなくなった。
西縁側の最初の閘門はなくなっていて堀にはほとんど水が流れていない。通船堀と並行する車道にはいくつも神社がある。稲荷社や水神社…いずれも見沼の開拓者がまつったらしい。稲荷社のわきには3匹のサルの土台が特徴的な庚申塔があった。
重厚な屋根のある鈴木家住宅は、「高田家とともに見沼干拓事業に参加し、両家は江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり、八丁堤などには通船会所をもっていた。文政年間以降は八丁会所で船割にあたり…」と書いてあった。
芝川から代用水の東縁までの390メートルには閘門のふたつの関が再現されている。閘門というシステムはだれが考え出したのだろう。
通船堀と代用水東縁の連結点の高台には「木曽呂の富士塚」がある。高さ5.4メートル、直径20メートルの塚は、富士山を模してつくられた。頂上にはお鉢巡りができるように火口も掘ってあり、ふもとには洞窟がつくられ、胎内巡りもできたらしい。
富士講はよほどの広がりをもっていたようだ。
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