歌舞伎町のすぐ北側、韓国やベトナムなどの店がならぶ大通り沿の雑居ビルの7階にある。民団のビルらしい。ボランティアのおじさんがガイドをしている。
ハンセン病は、あまりにも徹底的に排除されたためにその差別のひどさが一般の人々に気づかれないほどだった。だが朝鮮人の患者は、それに加えて、朝鮮人であることによる差別を受けていた。その存在はほとんど焦点を当てられることがなかった。タイトルだけで、見なければ、と思った。
ハンセン病患者はただ患者であるだけで刑務所のような療養所に隔離され、「問題」を起こすと犯罪者のように重監房に閉じ込められ、90人以上の人が飢えや寒さで死んだ。朝鮮人は劣悪な環境に暮らしていたぶん、日本人よりもハンセン病に罹患することが多かった。療養所によっては1割を超えるところもあった。虐げられている患者のなかでも朝鮮人患者はさらに差別された。
戦後も制度的な差別がそれを後押しした。戦後も菊地以外の療養所では、外国籍の人が携帯を義務づけられていた外国人登録証が療養所によって管理され、外出が制限されていた。
1959年に国民年金法が成立したが、60年にはじまる国民福祉年金の対象から外国籍のハンセン病患者は除外された。平等の扱いを求める長い運動の末、1972年にようやく、日本人の患者と同額支給になった。
1954年、熊本の黒髪小学校で、PTAが患者の子の受け入れを拒んだ事件が起きた。それはハンセン病資料館の展示で知っていたが、本当は7人の新入生がいたのに、在日の3人は入学対象外とされ、4人しか入学できなかった。そんなことは資料館の展示には書いていなかった(と思う)。
底辺から見ないと、最底辺で苦しむ人は抜け落ちてしまうのだ。
光田健輔医師は隔離政策を進めたことで批判されているが、ハンセン病資料館の展示では「慈父のような人」という評価もあったと記され、神谷美恵子は「慈愛の人」とまで評価している。ところが朝鮮人患者の目から見ると、「ライの巣窟が南朝鮮にあってどんどん患者が日本に潜入してくる」と1951年に発言するなど、もはや極悪人の様相を呈する。
皇室がしばしば療養所を慰問したことの評価も、2005年の「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告」では「皇室の象徴権威がハンセン病患者の差別支配に政治利用された」と指摘。ハンセン病患者を「けがれた」存在と位置づけ「皇室の御仁慈の対象」とすることで、天皇制を強化するために利用されたという。
美智子さんと親交があったという神谷美恵子はその片棒を担いでいたことになる。
底辺から見ると、ふだんは見えない世界のあり方が浮かび上がってくる。
目次
コメント