MENU

西国巡礼 今熊野観音寺〜清水寺〜六波羅蜜寺

■(15〜17)20200621

 五来重の「西国巡礼の寺」を読み返している。
 京都の清水寺近くの阿弥陀ヶ峰のあたりはかつて鳥辺野と呼ばれ、死者を葬る場所であり、鴨川を東に渡ると冥界だったという。
 死者のくににある3つの寺を訪ねることにした。
 11時ごろ東福寺駅でおりて、東へ。泉涌寺の山門をくぐる。この寺には多くの皇族が葬られているらしい。

 道沿いにいくつかの寺がならぶ。戒光寺には、後背部もふくめると高さ10メートルもある木造の釈迦如来像(重要文化財)がある。木彫りの大仏としては最大のものらしい。目の前に見られるのはありがたい。
 泉涌寺には行かず、緑の山に囲まれた十五番、今熊野観音寺へ。
 参拝者はけっこう多い。本尊は十一面観音だ。五来によると、新那智山という山号に見られるように、もとは海や湖と関係が深い千手観音が本尊だった。それがいつのころからか、山と関係が深い十一面観音にかわったという。
 納経所のお坊さんによると、弘法大師が熊野権現とであったという伝説がある。昔はもっと下に本堂があり、この場所が奥の院だった。廃仏毀釈で奥の院が本堂になったそうだ。

 十六番清水寺に行くには、一般には東大路まで下るのだが、五来は寺の裏手から阿弥陀ケ峰の裏をたどる道をすすめていた。
 寺の裏山の斜面には「○○上人の墓」といったお坊さんの墓がならぶ。地形図にある山道をたどろうとしたが、途中から荒れて通れない。
 しかたがないから「京都1周トレイル」という案内板にしたがって歩いた。
 山道をたどるとまさに阿弥陀ヶ峰の東をまわり、東山浄苑近くの国道1号線に出た。2018年8月には浄苑に親類の墓参りに来た。その1カ月ちょっと後には墓参りした本人があっちにいってしまった。

 山道や山際の集落を歩くと独特のさびしさやすさみを感じる。浄苑のあたりもそういう空気感があった。「死者の里」の雰囲気が残っているのかもしれない。
 国道1号線をくぐり、急な階段をのぼると清水の墓地だ。

 軍人墓と同じ形の墓がならぶ。それらは一様に「歴代之奥城」「○○家之奥城」と記されている。奥城(おくつき)というのは墓という意味だが、なぜここだけ「奥城」が多いのだろう。
 墓地を抜け、山際の砂利道をちょっとたどると清水寺の裏門に出た。

 清水寺に入るのは20年以上ぶりではなかろうか。境内は参拝客でにぎわっているが、団体や外国人客が少ないからゆったり歩ける。レンタルの浴衣姿の女の子が多いのが微笑ましい。でもペラペラの化繊の浴衣だから、京都の人は眉をひそめるだろうな。 

 清水坂の参道もにぎわっているが、満員電車のような混雑でないのはありがたい。参道は華やかで死の色はない。

 清水坂を下り、東大路を渡った松原通は静かになる。ちょっと歩くと「六道珍皇寺」がある。ここには生きながら冥界を自在に行き来したという小野篁のお堂がある。小野篁は奇矯な行動をとる天才であり、一時は隠岐の島に流されたが、その後復権していた。

 五条坂から今熊野にかけての阿弥陀ケ峰のふもとは葬送の地で、かつての五条通である松原通りは葬られる死者の通り道だった。死者を運ぶ車が往来したから「車大路」とも呼ばれていたらしい。そしてこの寺のあたりがこの世と冥界との境界「六道の辻」とされていた。
 たしかに観光客でにぎわう清水坂をのぞけば、死者の道の雰囲気がそこはかとなく残っている。

 そんな住宅街の一画に六波羅蜜寺がある。(平清盛は六波羅探題を死者を葬る鳥辺山と鴨川の間に設け、軍隊を京のまちには入れなかったという。)

 「阿古屋の塔」(写真右)という石造宝塔は鎌倉時代のものでその台座は古墳時代の古墳の石棺の石蓋を使っているらしい。五来によると現存するもっとも古い石造宝塔のひとつである可能性が高い。

 石碑の上に仏の顔だけのせた碑も迫力がある。
 本堂にお参りして、600円払って宝物殿を見学した。空也上人や平清盛の像がある。小さなスペースなのにならんでいる像はどれも重要文化財だ。でもそれほど感動できない。仏像のよさはまだ僕には理解できないようだ。空也上人の像は、口から針金を出して、その上に小さな6体の阿弥陀如来像がならんでいてユニークだったが。
 寺をひらいた空也や空也聖と呼ばれる弟子たちは、散乱している遺体を供養してまわっていたらしい。鳥辺野の死者たちによりそう寺だったのだろう。

 寺から鴨川まではすぐだ。松原橋が平安時代の五条大路で、弁慶と牛若丸の決闘の場もここだった。清水への参詣道だからたいそうにぎわったという。秀吉の時代に現在の五条通の位置に橋をかけかえたらしい。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次