遍路を終えてすぐに高野山の奥の院に参るべきなのだけど、コロナで3カ月も遅くなってしまった。
午前5時すぎに家を出て、7時すぎに九度山駅に着いた。平屋建てのかわいい駅は六連銭の旗と猿飛佐助や霧隠才蔵らの絵が飾られている。県道を数分歩くと真田親子が蟄居していたという真田庵。小さなお寺になっていて昌幸の墓がある。真田父子がつくっていたという「真田紐」って、他のひもと何がちがうんだっけ?
慈尊院は女人高野と呼ばれている。乳房型の絵馬が奉納されている。この絵馬は奉納者による手作りという。米を布でくるんで乳房に見立てたものを絵馬に添付している。安産や乳がんなどの願いが込められているという。
高野山は女人禁制だから、空海の母親がここに住まい、空海は月に9度はここに通ったそうだ。そこから九度山という名になったという説もあるそうだ。
境内に大師堂があるから久しぶりに般若心経を唱えた。
ここから高野山上の根本大塔まで180本の町石が1町(109メートル)ごとに立てられている。慈尊院の町石が180で、上に行くほど数が減る。1里ごとの里石もある。
大塔から先、奥の院まではさらに36本の町石がある。
寺から石段を登ると、丹生官省符神社。石段の途中に最初の町石「百八十町」がある。
丹生の文字は渡来人と関係があり、能登ともつながっていたはずだが、よく覚えていない。
7時45分発。
あちこちにアジサイが咲き、ウグイスが歌声を競っている。遍路札がなつかしい。
30分で、紀ノ川を望む標高280メートルの展望台に着いた。
紀ノ川が山地をふたつに切り裂いて、広々とした平野を形成している。中央構造線の活動による雄大な地形だ。神々の造型を感じさせてくれる。
柿の山を登り、杉の森に分け入る。空海が榧の種をまいたという榧蒔石あたりまでのぼると標高490メートル。なだらかな尾根道に出た。
四国でも峠道には町石のようなものがあった。1町ごとに高さ50センチほどの石仏が立っていた。だが町石は「石仏」とは大きさが異なる。五輪塔形の石柱は高さ3メートル超で、それが109メートルごとに延々立っているのだ。日本を代表する宗教センターである高野山への表参道が別格であることがよくわかる。平安時代に木製のものがたてられ、1266年ごろから20年間かけて石造りになったという。その後も、修繕・改築されて今に至っている。
9時10分、、5.1キロ歩いた六本杉(標高590メートル)で急な登りは終わり。
ここからはなだらかな道をたどって9時36分に二ツ鳥居の休憩所に着いた(標高640メートル)。休憩用の東屋があり、2つの鳥居から天野という静かな里を望める。丹生都比売神社はこの里にある。5年ほど前に訪ねたのを思い出した。ここで「120町」だから大塔までの1/3だ。握り飯を1個食べる。
15分ほど下って小さな池に近づくと人の声がする。目の前にゴルフ場が開けた。10時、地蔵堂が明るい斜面に立ち、ツツジが満開だ。地蔵堂の下は神田という集落が広がる。10時35分「九十町」。ここまで10キロ。大塔までの半分だ。
11時25分、車道に出たと思ったら矢立の峠(標高490メートル)だった。「六十町」の町石と茶屋がある。13キロ歩いてはじめての舗装道路だ。四国でもこれだけ山道がつづく場所はない。やっぱり規模がちがう。
矢立からはまた登り道になる。鏡石をすぎ「十町」をすぎて山の斜面をダラダラ登る。ウグイスをはじめ多くの鳥の声が響く。小さな蝶がずっと周囲を乱舞している。蝶が死者の国へ誘っているようだ。ときおり涼しい風が吹き抜ける。
13時20分、車の音が聞こえてきて、車道に登りつめると、巨大な朱色の「大門」がそびえていた。高野山の西の入口だ(六町、標高844メートル、19キロ)。2個目の握り飯を食べた。
ここからは、土産物店や食堂がならぶ。あちこちに寺があり、まち全体が落ち着いた風情だ。
道端をふつうに坊さんが歩き、自転車に乗る。標高800メートル超の高原に広がる世界でもまれな宗教都市だ。
小辺路をたどって高野山に来たのを思い出す。あの時は今以上に疲れて切っていたけれど、帰る家があった。
14時10分、奥の院入り口の「一之橋」。手水場にはひしゃくがない。コロナによるものだ。ここから奥の院までさらに1.6キロある。
うっそうとした巨大な杉の森の下には、20万基ともいわれる墓がつらなっている。
巨大などっしりした五輪塔は大半が武家の墓(供養塔)らしい。薩摩の島津家があると思ったら、東北地方まで全国の武家の墓がある。武田信玄・勝頼親子、石田三成、本多忠勝、法然上人、秀吉、信長…。
大部分は墓ではない供養塔なのだろうが「墓所」としている。戦没者の慰霊碑や企業人の墓もある。
以前、和歌山のあちこちのムラで、死後は遺骨か遺髪を高野山にもっていくという話を聞いた。昔からそういう信仰があったのだろうか。
14時40分、ようやく奥の院の奥にたどりついた。23キロ。
御廟橋からは撮影禁止だ。建物の裏にぐるりとまわると、弘法大師が入定し、今もそこに生きているとされる建物がある。
人が多いから遠慮がちに般若心経を唱えた。これがお遍路の最後だ。
何も変わっていないような気がするけど、何か変わったのかなぁ。
納経所にもどると、「えらいねぇ、お遍路をしたのねぇ、昨日が御大師さんの誕生日でお餅を配っていたんだけど、ひとつだけ残っているのでさしあげます」「コロナで大変ねぇ、仕事をやめても、ピンチはチャンスというからね、いいことがありますよ」。気さくなおばちゃんだ。
15時発、20分で一ノ橋にもどる。金剛峯寺の裏を歩いて女人堂へ。一度歩いた道だ。バスに乗ってケーブルカーで帰れば楽だけど、お金がもったいないし、最後まで自分の足で歩きたい。
15時50分、女人堂(標高855メートル、26.7キロ)。明治になるまでは女性はここまでしか来られなかった。
前回もたどった不動坂を標高差300メートルほどを下り、ケーブルカーの下をくぐって、35分ほどで極楽橋駅(標高547メートル、30キロ)に着いた。
特急は720円もよぶんにかかるから20分後の普通列車に乗り、19時すぎに帰宅した。出発からの歩行距離は35キロ、5万3000歩。こんなに歩くのはお遍路以来だった。
お遍路でなれていたから、町石道の20キロもそれほど長く感じなかった。
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