はじめて早朝のお勤めに参加する。
午前6時、周囲はまだ真っ暗。本堂にストーブの火がゆらゆら揺れて、本尊の千手観音が神々しい。払暁の闇が神秘的だ。
般若心経は、銅鑼のリズムに合わせて音楽のように唱える。ちゃんとした読経を聴くのは心地よい。
住職さんにあいさつした。15年前に何度か取材したことがある。「妻が亡くなりまして」と僕が言うと、「私が先輩です」。本堂には遺影がある。奥さんは精進料理をきわめてテレビでも紹介されたが、5年前に肺ガンで亡くなった。「諸行無常というけど、亡くなってはじめてその意味がわかった。私にとって妻こそが菩薩でした」。幸せというのは「あのころは幸せだった」と、失ってはじめて実感できるものなのだ。
奥さんの病気がきっかけに自らのガンがわかった。「生かされた命だからひとときも無駄にしたくない。いつ死ぬかわからない。一所懸命です」。耕作放棄されていた4町の田畑をつくり、狩猟免許も取った。まさに「今・ここ」を大切に生きている。
「お遍路では名刺と時計を捨てることが大事」と言う。俺は肩書きはもう捨てた。でも時計は捨てられない。何度も野宿で遍路道を歩いてきた住職は「お遍路は寄り道が大事ですよ」と言った。
朝食はナミちゃんにいただいた手作りパウンドケーキ。朝食にはもったいない。
7時に出発。山道を下るのは心地よい。登ってきたおじさんが僕のカメラを見て「珍しいですねぇ」「歩き遍路さんの写真を撮らせてください」。出してきたカメラはニコンFEだ。懐かしい。
山を下りきると、水田と農村集落を歩いて線路を横断する。
今朝は左足首が痛い。「慣れた」と思って無理をするとどこかが悲鳴をあげる。
でも、雲の上を歩くように軽ーく前に進める一瞬を感じられた。首からさげたカメラが揺れないから両手を振ることができる。でもその感覚は長くはつづかない。足のどこかに力が入ってしまう。あの歩きを持続できたら、長距離を疲れ知らずで歩けるような気がするのだけど。
8時35分、県道からちょっとのぼった場所に国分寺があった。
手をさしのべた弘法大師の像と握手するとひとつだけ願いがかなえられるという。願いは「会わせて」しか浮かばない。
山門を出るとき、今回はじめて、うっすらとかすんだ石鎚山を見た。長い長い壁のように平地からせりあがっている。
桜井という場所は昔、織田が浜の取材で何度も訪れた。漆器職人のおじさんたちが浜を守る運動をしていた。彼らのがんばりがあったから、浜は半分残された。もう一度、浜を見てみたいなあ。〓
9寺50分、高速のICを過ぎると桜井漆器会館がある。時間があれば輪島との違いを見てみたい。「猿子橋」という橋の名にグッときた。
道の駅で休憩。和食のモーニング(650円)はおにぎり2個と温泉卵と味噌汁、コーヒーがついていた。
11時前、旧東予市に入る。世田薬師は、交通安全祈願の人が多く、自動車の形の絵馬がある。
11寺40分、番外の「御来迎臼井水」は小さなお堂の前に透明な水がわいている。水があると風景がやさしく感じられる。
三芳のまちに入ってすぐのJAが三芳村役場跡だ。11時55分、路地をちょっと入った日切大師は、小さな境内にクスノキの巨木がそびえる。外に向かって開かれていて、ムラの暮らしにとけ込んでいる。
「渡辺スエ女の碑」は、貞操を守った「人の鏡」として小学校修身書に掲載されたのを記念して昭和3年に建立された。三芳公民館が説明を書いている。歴史研究に熱心なのかもしれない。丸ポストもあった。
12時40分、広い水田を歩いていると石鎚の山脈が目の前にそびえる。右から堂ケ森、石鎚山、岩黒、瓶ケ森……。太陽が隠れ、どんよりした空模様になってきた。
丹原総合支所(旧丹原町役場)でトイレを借りた。目抜き通りはシャッターだらけ。合併で西条市の一部になってさびれたのだろう。
14時、中山川をわたると「石根」という地区だ。旧石鎚村の取材をしたとき、石根村の名も出てきた。これらが昭和の合併で小松町になり、今は西条市の一部になった。
国道11号に出た。まだ早いからコンビニで立ち読みして、ワンカップとワインを買って時間をつぶす。1キロ歩いて「湯の里 小町温泉しこくや」に着いたのは15時ちょっと前だった。国道11号沿い、ずっと前に遊びに来たことがある「りんりんパーク」だった。
きょうは4人の歩き遍路が泊まっているという。(つづく)
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