桃李庵の主人は話し好きでおもしろい。朝もしゃべりすぎて出発は7時にずれ込んだ。
雨。30分歩いた三坂峠から遍路道を下るが、山道はわずか30分ほどだった。自転車を押して峠までのぼったことを思い出した。
週末だけ「お接待」をしている「坂本屋」で逆打ちのおじさんに会った。閏年の逆打ちは御利益があるとされるから今年は多いのだ。
里へぐんぐん下り、「網掛石」を経て、久谷の集落に入る。
9時20分、浄瑠璃寺。
門前に長珍屋がある。民宿と旅館の中間のような宿だが8200円と旅館なみの値段だという。ここまで11キロ。靴はずぶぬれ。
1キロで八坂寺。30年前にできた門前の橋は、東屋のような屋根が設けられ山門の役割を果たしている。天井絵も名物だ。
10時半出発。農村に開けた集落と住宅地を過ぎ、重信川をわたってわき道に入ると正面に西林寺の山門が見えてきた。
その手前に「○○餓死者萬霊塔?」があった。
享保の飢饉で松山藩では5000人以上が餓死し、この近辺の高井村?では半数の人が死んだという。
西林寺の近くの杖の淵公園は、わき水で知られる。僕らがはじめてつくったドブロクの水はここまで汲みにきた。
国道11号を渡り、伊予鉄の線路をわたると、山際に堂々たる山門が見えてきた。両脇の迫力ある仁王像にカラフルな折り鶴が飾られている対比がおもしろい。
12時46分、浄土寺着。本堂と空也上人の像が重文に指定されている。納経所の人は「暖冬だからもう少し来るかと思ったのですが、コロナの影響で団体が激減しました」と嘆いていた。
ここからの車道は交通量が多いけど歩道もなくて危ない。すぐに右手にそれて墓地の中の小径をたどる。
山際のため池のわきに50番繁多寺があった。平野を見渡す高台にある。ちょっと離れたところからは松山城周辺の様子を一望できた。
「繁多寺に着いたら連絡して」と友人の雅子ちゃんからメッセージがあったから「着いたよ」と知らせ、お参りしたあと「石手寺に向かいます」と送信した。
寺を出てちょっと歩くと、マスクの女性が、全身から湯気を発するように必死で坂をのぼってきた。吹き出してしまった。「3日前からどこで待ち伏せしようって、考えとったんよぉ」
会うのは9年ぶりぐらいだけど、存在感がぜんぜん変わっていない。
石手寺まで一緒に歩いた。
彼女は鳥の姿をさっと見つけて、鳴き声も判別できる。鳥の気分までわかるかのようだ。そういえばRが言っていた。「雅子ちゃんはナウシカや。私も動物を呼び寄せる癖があるけど、私がウグイスを呼ぶとハトやカラスが糞を落としやがる」「彼女はミヤビの雅子で、私は雑子や。でもミツルには雑子ぐらいがちょうどええやろ」と言っていた。ま、ちょうどいいのは確かだけど。
石手寺の巨大草鞋は何年かぶりに交換したばかりというのに、もう硬貨が大量に挟み込まれてきらきら光っている。
石手寺の住職は「不殺生の会」をつくり、有事法制などに反対してきた。今も続けているようだ。
彼女とさよならして、1泊3600円と格安の国際ホテル松山にチェックイン。ちょっと休んでから、友人5人と会食。魚や鯛飯などのごちそうを「お接待」してもらい、手作りケーキや和菓子、コーヒーなどのおみやげまでいただいた。
松山は輪島や松江と並んで思い出が多すぎるから、足を踏み入れるのは気が進まなかった。以前住んでいた家や道後温泉に立ち寄るのは避けた。
でも友達と会うと、来てよかったと思える。
遍路道を歩いていると、日常を越えた感覚や存在があると思えて、「あの世」をふつうに話題にするようになった。彼岸を想定することで、「生きている間は生きるしかない」と、あきらめられるような気がする。(つづく)
コメント
コメント一覧 (1件)
久しぶりに立ち寄りました。松山に輪島に松江とは、良いところばかり住んでますね、、、。
私は職場が新宿でコロナが怖いから行くのが気が重い。今日はテレワークでラッキーでした。お互い気を付けましょう。