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遍路㉘久々の会話 大宝寺と岩屋寺20200303

 昨夜の宿「でんこ」では中国系カナダ人の鍼灸師といっしょだった。大洲の十夜ケ橋から久万まで14時間かけて50キロ歩いたそうだ。言葉もわからないのにたいしたものだ。
 7時発。標高600メートル近い高原だから田に霜がおりている。
 まちには雛人形が飾ってある。きょうはひな祭りなんだ。2年前のきょう、ホタルイカのパスタをつくって食べ、その夜中にRは救急車で搬送されたのだった。
 帰りに久万美術館に寄ろうと思ったが、コロナウイルスの患者が愛媛でも出たせいできょうから休館になってしまった。

 大宝寺の参道には杉の巨木がにょきにょきと生えている。さすが久万林業の拠点の寺だけある。

 堂々とした木造の山門には巨大草鞋が飾られている。本堂前の階段の柱の一番上には井部栄治と久松定武が寄進者として並んでいる。

 久松は松平の子孫で元知事。「お殿様」と呼ばれていた。久松の得票のなかに「お殿様」「殿さん」などと書かれた投票がかなりあり、それが有効かどうかでもめたこともあった。井部は久万林業の中興の祖のような人で、久万美術館の所属品は彼のコレクションだった。
 参拝を終え、寺の裏山の急坂をのぼる。20分ほどで715メートルの峠に出た。朝はいろいろ思い出してしまう。火葬された直後、お骨の足がO脚になってて、思わず吹き出しそうになった。Rの寝相は赤ん坊のように奔放で豪快だった。
 今回の遍路はできるだけ旧道の峠を上り下りしている。峠を越えるたびに新しい里と出会う。峠を境に別の世界、別の村が確かにあったのだと、歩いているとよくわかる。久万のまちと峠の反対側の畑野川は別のムラなのだ。

峠越え登っておりてまた登り 地球のしわを感じる遍路

 民宿「和佐路」の手前から右手の遍路道に入る。
 道ばたに「エンマ堂遍路道」と記された地蔵が点々と立っている。案内板は新しい。どんな経緯でつくられたのか。

  8時55分、山道に分け入る。20分ほどでぽっかりと明るい斜面に廃屋と畑が広がっていた。今も野菜をつくっているようだ。

 八丁坂の入り口からは、じぐざぐの急登が10分ほどつづき、9時40分に尾根に出た。前回たどった槙谷からの登山道と合流する。
 木漏れ日が心地よい尾根をしばらく歩き、その後、アップダウンを繰り返し、最後に一気に下る。

 白山大権現お逼割場は、岩と岩の隙間を頂上までのぼる修行の場だ。
 10時28分、岩屋寺の裏のシンプルなつくりの山門に着いた。12.5キロ。H650メートル。

 本堂の隣の岩壁がくぼんだ部分まで梯子で登れる。
 山の寺では文字を読まず目を閉じて読経した方が、森と一体になれるような気がする。巨岩に囲まれた岩屋寺はほかにはない霊気を感じられる、という人もいる。
 11時5分発。15分で県道に下りると、前回泊まった「民宿かどた」があった。疲れ切っていたせいか、清潔で快適だった印象がある。
 岩屋寺や古岩屋には、溶岩のようなぼつぼつと穴のあいた岩峰が林立している。「礫岩峰」と呼ぶらしい。海中で堆積した礫岩層が浸食されて岩峰や逼割ができたという。
 11時48分、国民宿舎の古岩屋荘から遍路道に入る。
 10分ほど歩くと、お堂がある。谷川の対岸の岸壁の中間の穴に高さ3メートルの不動明王の像がある。どうやってあの高さまで持ち上げたのか。
 正午過ぎ、八丁坂の分岐にもどってきた。
 あとは行きと同じ道をたどり、最後はトンネルで峠を越えた。
 久万美術館が休館で併設の食堂「みどり」も、かつてはいつも大盛況だったのにまったく客が入っていない。
 久万のまちに戻ってきた。「道の駅」で手作りの握り飯150円とワンカップを買った。
 きょうは歩き遍路が多かった。白人女性のペアが2組もいた。

 「でんこ」で預けていたリュックを受け取り、三坂峠方面へ。
 自動車専用の「三坂道路」が完成している。その分岐を右の林道に入って100メートルほど歩くと「桃李庵」に着いた。


 工事現場の飯場の建物を改装したという。薪ストーブだから室内はポカポカしている。
 主人は40代で会社をやめ、何周もへんろをして、歩き遍路相手の宿をここで開いた。
「35キロ歩く人が24、5キロに抑えたら、いろいろちがうものが見えてきますよ。必死のお遍路さんにはお接待する方も声を掛けにくいし。お接待があったら立ち止まり、お茶を飲んで…という遍路をした方がよくないですか」
 たしかになあ、ちょっとペースを落としたほうがよいかもしれない。
 元の職場の同僚が彼を取材して、連載記事で紹介したという。
 久しぶりに人とたっぷり会話した。よい夜だった。(つづく

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