旅館「まつちや」は、カッパや靴などはすべて乾燥してくれて、「お接待」で着ていた服を洗濯してくれた。雨で体が冷え切っていたからありがたかった。今朝は昼食のおにぎりまで。どれほど親切な宿なんだろう。玄関の彫り物はお遍路さんから贈られた。その人は仏師になって毎年のように寄贈してくれるという。
つらいときほど人のありがたみがわかる。遍路道は自然環境や人とのふれあいを通して「ありがたい」という気持ちを感じさせるシステムになっている。
午前7時発。標高200メートルの卯之町は霧に覆われている。朝早くからおしゃれなパン屋が開いている。
旧道と国道を交互にたどる。東多田という集落は重厚な町屋が多い。国道からちょっと入った「信里庵」の近くには「信里村」というカラオケ店も。「村」のプライドを持ちつづけているのだろうか。
肱川源流の里という休憩所から左に入り、鳥坂峠(480メートル)に向かう。山道を20分ほどで峠に着いた。石積みの上にお地蔵さん。
日天社というお堂の小屋にはござが敷いてある。泊まる人もいたのだろう。お堂のなかには半円球の石がまつられている。丸石信仰がここにもあるのだろうか。
林道と山道を交互に下り、10時16分に札掛大師堂。古びた山門のなかに御大師さんの像がある。境内は荒れ、建物はつる草や雑木に覆われている。
ソファーやテレビ、自転車が建物内外に放置されている。もう山に戻るしかない。一度崩れてしまうと人の営みはもろい。
国道の直前の南久米小学校は閉校で特養になっている。珍しい。
国道を大洲盆地に向けてひたすら下る。国道56号から離れて川の対岸の441号を歩き、肱川沿いを下る。
肱川左岸には臥龍山荘などの見所があり、周囲はレトロなまちなみが広がる。卯之町や内子の重厚さではない。
乱雑で懐かしく、生きているって感じがする。そうだ、これが昭和30~40年代ののまちなんだ。
大洲ほど昭和が色濃いまちは少ないのではないか。「ポコペン横丁」には昔懐かしい看板が勢ぞろい。大洲は何度も来たいたのに「昭和」のまちに注目したことはなかった。もっと歩くべきだった。
「しぐれ」の店も多い。ある店のしぐれがRのお気に入りだったが、どの店か忘れた。なぜ大洲に「しぐれ」が根づいたのだろう。
肱川の橋から、鵜飼いの船や山上の大洲城を眺める。
高校3年の受験のあと、大洲のYHに泊まった。肱川の風景は今も印象に残っている。
国道を歩くと、郊外店が延々とつづく。古いまちが昭和なら、郊外店は平成のまちなみだ。もう一度、歩いて用を足せる昭和のまちを再評価する時代が来るような気がする。
12時40分、十夜ケ橋。2018年の水害被害で本堂は解体された。大師堂の柱にその時の水位を記してある。
大師が寝たという橋の下から川を見るとエサを求めて黒いコイが群がっている。ハトも集まっている。
13時半、国道から左の旧道に入り、新谷という集落へ。けっこう大きなまちだ。国道ができる前はさぞやにぎやかだったろう。「新谷1万石の町」と呼ばれたという。松本零士は戦争末期に母の実家のある新谷に疎開していた。銀河鉄道999にはこのムラの世界が反映されているという。
「銀河鉄道999 こころの古里 新谷メーテル通り」というのぼりがあちこちに掲示されている。
14時3分、国道と合流個所に休憩所があった。建設会社のトイレも借りられる。実はこの会社は友人のIちゃんの親の実家なんだそうだ。お遍路さんの接待用に設けた五右衛門風呂が、水害の時に役だったという。後から聞いて驚いた。
まもなく旧五十崎町に入り、左の遍路道に入る。五十崎と内子は近くだと思ったが、歩くとけっこうある。
30分ほど山中を歩いてようやく内子駅の裏側に出た。
伝建地区は2年前に歩いたからどうでもよい。
酒屋で「京ひな」の吟醸辛口輝乃吟を買った。試飲のときは特徴があると感じたけど、ふつうの酒だった。
15時半、民宿シャロン到着。素泊まり4500円。夕食は階下の食堂で注文して食べる。1100円の「おまかせ定食」と瓶ビール500円を頼んだ。
「川の対岸には6、7軒も工場があって、いつも食べに来てくれたけど、バブルのころに1年もしないで全部なくなった。中国やらに行ってしまった」と、おやじさんは嘆いていた。(つづく)
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