午前6時すぎ、真っ暗なかを出発。コンビニで握り飯2個とのチョコと茶を買う。これが朝昼飯になった。
宍喰はホテルを宿泊施設を兼ねた道の駅があったが、暗くて確認できなかった。
東の水平線がオレンジ色に染まり、宍喰港から次々に漁船が出航する。
トンネルを抜けて高知県東洋町に入り、わき道に入ると甲浦の漁港だ。「おはようございまーす、お気をつけて行ってらっしゃーい」と自転車のおばちゃんが通りすぎる。
奥深く切れ込んだ港には大きな竿を備えた一本釣りの漁船がならぶ。和歌山のケンケン漁のように小型船ばかり。十数人が乗り込む一本釣りの船ではない。
港の出口に立ちはだかるように小島が浮かぶ。島が津波からまちを守った、という伝説があるにちがいない。島に社もまつられていることだろう。
甲浦から国道の坂を上ってトンネルをくぐると生見だ。真冬なのにサーファーがちらほら。以前来たときは民宿に泊まり、砂浜に「改憲反対」とか描いて遊んだ。ポンカンなどの直売所も多い。
9時すぎ、国道から離れて東洋大師(明徳寺)へ。カラフルなのぼりがはためき、狭い境内に建物が軒を寄せ合い、休憩用のベンチがならぶ。本堂前には「お接待」として、コーヒーや茶、ポットの湯が用意されている。
山門わきには、こたつを備えた居心地良さそうな通夜堂がある。寺の周囲ではピーチクピーチクと小鳥がさえずる。おだやかな里だ。
野根の中心の通りはまっすぐ。穏やかでたたずまいが落ち着いている。「野根まんぢう」。前回食べた記憶がない。「天皇陛下…」と書いてあるからやめたのかもしれない。味わってみようと思ったが、ばら売りはしてくれなかった。
まちは川にぶち当たって終わる。橋の4隅には四角形の不思議な形の灯籠が設けられているが、両岸とも片方は壊れている。昭和6年の建設という。
海沿いの国道をひたすら歩く。右側はサルしか登れない急斜面だ。道路ができる前は、岩がごろごろの海岸を歩くしかなかった。文字通りの苦行だった。打ち上げられ木々が白骨のように転がっている。
集落がない。幾重にもつらなる岬の向こうのそのまたずっと向こうに室戸岬はある。自販機もない。佐喜浜まで3時間近く、なにも買えない。
ゴロゴロ浜という浜は、波が押し寄せて、沖に戻るときに本当にゴロゴロと岩が転がる音が響きわたる。
11時5分、山側にベンチとお堂がある法海上人堂で休憩する。古いけど便所があり、山水がある。真夏に水筒を忘れたらありがたかろう。
室戸市に入ってまもなく右手の小道にそれると、久しぶりの集落・入木だ。海のある東以外の三方を山で囲まれている。
集落は山沿いだが、そこから離れた海側に墓地が広がる。そこに仏海庵がある。今風の小屋だ。建物の奥に、仏海上人の碑か墓がある。この人は遍路を二十数回もまわり、最後は即身成仏したらしい。
この集落はなぜ、津波で流される海側が墓地になったのだろう。海人の系譜の人々だから、海辺の水葬の風習と関係があるのだろうか。
しばらく国道を歩いて、佐喜浜の集落に入る。「フェニックス」という名のスーパーや「みかど食堂」が現れる。名前は気宇壮大だ。
商店のある中心街を抜けて、住宅がびっしりならぶ海辺の旧道を歩くと、数十メートルごとに「津波緊急避難場所」という看板があり、高台の寺や公園が指定されている。
津呂という地区には「津波シェルター」があった。登れる高台が間近にないのだろうか。
15時10分、尾崎という集落のはずれにある民宿徳増に到着した。
夕食は、これまで泊まった遍路宿で1番か2番目のおいしさ。
刺身は、地元の定置網でとれたというマナガツオとイサキ、ブリのはらんぼ。照り焼きのブリも「うちのいけす」(太平洋)でとれた。小イカの自家製ポン巣あえ、地元のイワノリの吸い物、畑の野菜の天ぷら……。1泊2食7200円で、歩き遍路はさらも値引きしてくれた。
民宿をはじめたのは99歳の竹子さん。背筋がしっかり伸びて、話もよどまない。戦時中の大阪の話から、「波乗りさん」目当てで民宿をはじめたこと。さらには「昔のお遍路さんは、コメやお金をめぐんでもらって「軒下でいいから寝させてください」って言って物乞いみたいなものだった。今のお遍路さんはお金もあって、一番幸せなお遍路さんだと思います」。
昔と今の違いを実感を込めて話してくれるお年寄りは本当にありがたい。(つづく)
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