さくら庵を6時半に出発。
薬王寺はライトアップされている。日和佐は門前町なのだ。旧市街を抜けると、田に霜がおりている。
1時間ほどで日和佐トンネル(690メートル)に。前回は直前から旧道に入ったはずだ。
よく見ると左側車線の歩道に「よここ峠へんろ道1.4キロ30分」という古びた看板がある。 国道の旧道だが、雑木が繁茂して道を塞いでいる。「はじめは荒れてますが、歩行者は通れます」と書いてあるから入ってみた。峠への山道に入ると歩きやすくなる。20分ほどで尾根の切り通しに出た。峠だ。地蔵と標石がある。下りは10分ほどでトンネルの反対側に下りた。
国道沿いの朽ちた民家にサルが5、6匹も群れている。過疎を象徴する風景だ。 「元気なおばあちゃんたちのおしゃべり場」というベンチがある。遍路道にはベンチが多い。それが福祉にも役立っているような気がする。
国道をぐんぐんのぼって、9時すぎに牟岐町に入った。さっそく「モラスコむぎ」の看板。トイレに行きたがっていたRが、看板を見たとたんに「もらす子って言うなぁ! 暗示にかかるぅ」と悲鳴をあげたのを思い出した。
小松大師を拝んでから牟岐川左岸の小径を下り、国道のある右岸に渡ると海部病院を経て牟岐駅に着く。
国道から離れて牟岐のまちを歩く。柱が太くて格子戸を備えた立派な構えの商家が3、4軒残っている。
海沿いの旧道を通って30分ほどで草鞋供養の地蔵さん「草鞋大師」へ。ちょっと上の遍路道からは内妻海岸の砂浜と、幾重にも重なる入江と岬が一望できる。
正午過ぎ、砂浜の内妻海岸で轟音に驚いて上空を見ると、オスプレイが2機飛来した。小さな機体なのに音は大きい。 内妻トンネルを迂回する松坂峠の遍路道は、今回は入口を見逃してしまった。
「きゅうりタウン海陽町」に入った。沖には無人島がいくつも浮かんでいる。
12時25分、鯖瀬の駅の下をくぐるとと番外札所の鯖大師だ。
サバを3年食べなければ願いごとがかなうのだそうだ。僕はもう現世の願いごとはないのけど。本堂の右手には護摩堂がある。山をくり抜いて奥深い洞窟をお堂の一部に取り入れている。全札所を表す地蔵や、信者が奉納した小型の仏像がずらりと並ぶ。奥の部屋には不動明王が鎮座していた。地獄のイメージだろうか。見応えがあった。
国道沿いの「さばせ大福」で1個70円の大福を2個買って昼飯とした。
ちょっと歩くと、「国道の方が近道」と書いてあるが、前回と同じ農道を選ぶ。
前回は鯖大師から、50歳前後のおじさんと、20代の男性と4人で歩いた。おじさんは、テントをかついで1県40日かけて歩いていた。「私らなんて信仰心が薄いから白衣着るのが申し訳なくて」とRが言うと「本当に信仰心がある人は車で回ります。納経帳もって札所巡ってるあなたたちはパーフェクト遍路や」と言った。 今はその意味がわかる。信仰の厚い人は車で巡ってもありがたいと思える。僕は無理。歩いてようやくなにかが見えるような「気がする」だけ。
浅川港の役場の出張所前には「南海道地震津波碑」「津波十訓」の碑が立っている。1946年には多くの人が亡くなったのだ。
なだらかな起伏のある農道をたどる。14時半、大里古墳というこんもりした土盛りが目に入った。徳島県最大の円墳という。阿波の海部として、海上交通や漁労などに活躍した人物である可能性が高いらしい。
熊野では海人の墓は海辺の洞窟などではなかったか。だから海人の支配した地域には古墳がない、と聞いた記憶がある。徳島の阿波や海部などの地名はアマに通じる。だとしたら熊野と同じ流れのはずなのだけど。
14時45分、海部川の橋を渡り、30分ほどで「ふれあいの宿遊遊NASA」の入口を過ぎた。ちょっと高いけど、料理がおいしくて心地の良い宿だった。そんなぜいたくをすることはもう一生ないだろう。
那佐湾は川のように奥深い。中南米の川や西表島の川を彷彿とさせる。
16時半、宍喰の手前にある「民宿はるる亭」に着いた。1泊2食7500円。ぬるぬるの温泉が心地よい。(つづく)
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