6時20分に真っ暗ななかを出発。
30キロ以上歩くときは5時には起きていたから「携帯のアラームの音がいやや!」と言いながら、筋肉痛の足を引きずって布団を出たのを思い出す。
寺に着くと空がちょっと明るくなった。裏手から登山道を20分たどると、吉野川と平野を一望する高台に出た。鳥がピッピー、チクチーと軽やかに鳴いている。巨大な川が平野をつくったのだとよくわかる。遍路道を歩くと土地の形や使われ方が見えてくる。信仰の道なのだからあの世の地形も見えたらいいのに。
7時40分、水大師。だれかと歩いているような錯覚を覚える。悲しみを感じるとき死者がそばに来ている、というのは本当かもしれない。
長戸庵からは気持ちのよい杉林の尾根道を飛ばす。熊野古道の大辺路でよく見かけたダンチクのような尾根もある。
標高550メートルぐらいまで上がって一度下ると柳水庵だ。湧き水や便所もある。古い家は10年ほど前まで宿を営んでいた。
ちょっと下に休憩所が新たに建てられている。「宿泊禁止です」「ただし…体調の悪い人は1泊だけのご利用でお願いします」と書いてある。乞食遍路を警戒しているようだ。
しばらく林道を歩き、急な山道に入る。雪がぱらつきはじめた。40分ほど登りつづけて「一本杉越」の峠に着いた。大師像と巨大な一本杉がそびえる。標高730メートルほど。浄蓮庵というお堂がある。雪が降ると静けさが深まって心地よい。
急坂を30分下ると、柑橘の畑に出た。モミの木?を細くひもでくくって栽培している。クリスマス用だろうか。斜面に10軒以上の家が散らばる。谷間には梅が植えられ、黄色っぽい花が咲いている。標高370メートルまで下りてしまった。
道ばたに倒れてこけ蒸した墓がある。ご先祖さんになって子孫をムラを見守ってきたのにムラそのものが消えようとしている。哀しい風景だ。
谷底から急坂を40分登り返すと、仏像がならぶ参道に出た。11時50分、12番焼山寺の山門に着いた。
雲間から太陽がのぞき、光があふれ、チーチクチーチクと鳥の声が響き、手水舎の水がチョロチョロと音を立てる。心まで透明になりそう。故人を感じながら、新しい人生を歩むことは可能なんだろうか。無理だろうなあ。
12時25分発。標高700メートルもある山なのに、梅が咲いている。
ちんまりかわいい花を見ると、いろいろな言葉を思い出してしまう。元気な時には出てこないコトバだった。あちらの世界から風を受けて詩人になっていたのかもしれない。
30分で集落におりると、杖杉庵という真新しい庵がある。さらに下ると、荒れたプールと小学校。たぶん廃校になったのだろう。学校前に「みやげ ぢぞうさん ふくろうさん あります」という店があった。
「お遍路駅」という小屋は「左右内振興協議会」が建てたらしい。「すだち館」という宿は今は閉鎖してしまったらしい。
休憩していたら、焼山寺の納経所で会った千葉の男性が下りてきた。定年して時間があるから、通し打ちをしている。
今日最後の峠道へ。ゆるやかな小径をしばらくたどったあと、急坂にとりつく。「上の車道まで600メートル」と書いてあったが、玉が峠まで一気に標高差200メートルを登りつめた。峠にはトイレと小屋があり、「宿泊はお断り」と記されている。
山の中腹の舗装された町道をたどる。梅の花をサルに見せてあげたいなあと思って歩いていると、枝にほっぺたらをすり寄せているような花に目が留まった。「甘ったれ梅だっ」と思わず叫んでしまった。
谷間の県道を見下ろす集落の遍路小屋の近くの家で、おじいさんに声をかけた。軒先にアルミ缶製の風車がまわっている。甥っ子がつくったという。
集落の人は昔は林業で食べていたが、今はスダチとウメくらい。働く場がないからみんな出て行ってしまった……。
町道を歩きつづけると1時間で、谷間の県道に合流した。家の軒先に柿を干す姿を表現したかかしがある。さっきの空き缶風車もそうだけど、阿川地区は芸術のムラなのだろうか。
16時ちょうどに植村旅館に着いた。きょうは38838歩、24.3キロ。山道なのによく歩けた。母親と30歳台と思しき娘さんが営んでいる。建物も風呂も新しい。
夕食は、カツオたたき、エビやカキのフライ、寄せ鍋……と大ごちそう。
「前は妻と来て、こちらのおばあさんから手紙をいただいた」と言うと、「ご供養ですか」。言うんじゃなかった。(つづく)
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